哲学の中庭

…と、真理の犬たち

円坐の静けさと沈黙

円坐。

テーマも目的もなく人々が集まり車座になる、

原始的で根源的な会。

 

始まってからおよそ30分、

誰も話さない。

思いがけない感覚や考えが次々によぎる、

豊かな静けさ。

この豊かな静けさと引き換えにできる声を、

僕はもたなかった。

 

3時間にわたる会のあいだ、

僕はほとんど話さなかった。

沈黙し、人の顔をみて、声を聴く。

おもしろくてしかたがない。

 

過去の会で話されたことよりも、

雰囲気をよく憶えていると言う人。

話されたことをよく憶えていると言う人。

そうか、僕は哲学対話のときも、

人の表情と声の出しかたを、

よく憶えている。

 

僕は黙って、人の顔をみて、声を聴く。

哲学対話なら話したくなってしまうが、

どうしても黙っていたい。

自分のこの沈黙と引き換えにできる声を、

僕はもたなかった。

 

話さないのに対話をおもしろがる人の気持ちが、

今日はじめて理解できた。

 

 

 ボーロ

なぜ人は物語に没頭するのか?

今朝、目が覚めてふと、

「なぜ忍者ハットリくんの獅子丸の好物は、ちくわなのだろう?」

と思った。

さっそくスマホでネット検索してみると、某質問サイトに、同じ疑問が投稿されている。

「獅子丸の好物はなぜ竹輪なんですか?」

さらに疑問がわいてきた。「獅子丸の好物はなぜ竹輪ということに作者はしたのですか?」というふうに、作者について質問しても同じことなのに、あたかも獅子丸が実在するかのように質問している。どうしてだろう?

どういうわけか人間は、物語に没頭するようにできている。「誰々がこうなって、こうなった。」その誰々がたとえ実在しなくても、没頭してしまう。そして没頭すると、その誰々があたかも実在するかのような錯覚が生まれてくる。

 

f:id:shogoshimizu:20170324071356j:image
▲ ピエール=ナルシス・ゲラン 《モルフェウスとイリス》 

 

このように、物語(ミュトス)には、夢の神モルフェウスが住まう*1

「物語の形式は、現実がもつ形式を真似して作られる。だから私たちは物語を現実と錯覚してしまうのだ。」

「いや、物語だろうが現実だろうが、私たちはそれを同じ形式でとらえる。だから物語を現実と錯覚してしまうのだ。」

どちらにしたって、なぜ形式にすぎないものが、実在の錯覚を生むのだろう?

物語の形式こそが、実在するものだからだ。そう考えることはできないだろうか。物語の形式は、実在する。実在の世界は、その形式がもっともよく発揮されているからこそ、実在する。私たちがその形式に気づいていても、気づいていなくても。

 

井上陽水「フィクション」(「夢の中へ」ではなく)

www.youtube.com

 

 

 ボーロ

「ラ・ラ・ランド」を観に映画館に連れていってもらった

とてもよい映画だった。

(できるだけまっさらな状態で観たい人は、読まないほうがいいかもしれません。)

 

▼ 予告編

www.youtube.com

 

夢追い人たち(dreamers)の物語だ。

途中、「どうして夢を追うのか?」に対して、「愛されたいから」という答えが発せられる場面がある*1

それなのに、この映画はラストで、それとは違った答えをみせてくれる。どうして夢を追うのか?それは、夢を自分で創れるようになりたいから*2

愛されたくて夢を追う人は多いだろうけど、夢を創れるようになりたくて夢を追う人はきっと少ない。前者のような人は、ピアニストのセバスチャンが一度その誘惑に駆られたように、道半ばで夢を変えてしまうかもしれない。自分を正当化する歌手のキースは、おそらく自分が夢を変えたことにも気づいていない。

そのような人もまた多いだろう。だとしたら、どうしてこの種の映画がたくさんの人を惹きつけるのだろうか?夢をみたいから、という答えだときれいすぎるかな。

 

 

 ボーロ

世界の抉り方

かの師は学生に、作品の内側にあるものから語り始めなさい、と言って指導するという。作品の周辺にある文脈や史実ではなく、作品そのものの内側にあるもの。

芸術などの作品だけでなく、おそらく世界だってそうだ。ある夜、かの師が懇親会でこう話すのを聞いた。そこにいる人の笑顔から始めなさい。

たとえば哲学対話では、「よく聞く」ことが推奨される。さて、「よく聞く」というのはどうすることか。人の言うことを一言一句聞き漏らさず、理解しながら聞く、これもよく聞くやり方のひとつではあるだろう。

ところが、「子どものための哲学」の関係者のあいだでは、「聞いていないと思った子が突然話し始めた。実は聞いていたようだ」というような証言をよく耳にする。

そのような子どもは、一言一句聞き漏らさないように聞いていたわけではないはずだ。むしろ反対に、何となくぼうっと聞いていただけだろう。それにもかかわらず、自分の関心に対して、体ごと反応できるのだ。

こんなふうにぼうっとできるようになるのは、素晴らしいことだ。ぼうっと聞いていても、ぼうっと生きていても、自分にとっての宝石が、世界から突如として浮き出してくる。

浮き出してきたら、体が自然と反応する。それにちゃんと気づいてやる。そうすれば、一点集中、全身全霊を傾けられる。

そうしていると、その一点から世界が花開いてくる。これが世界の抉り方だ。かの師の指導を僕はそう解釈する。

 

 

 ボーロ

向日葵の種

いろんなルートから考え続けているけど、どうも世界は向日葵の種のような形をしているようだ。

主観からの超越構成の議論だと、「どの主観?」という根本的な疑問が飛び越されてしまうしかない。そして、主観一般が超越一般を構成する議論が展開される。主観一般の話だから、近年では脳神経科学実験心理学が不可欠とまで言われる。

言い換えれば、主観から出発しようとすると、「どの主観?」という根本的な疑問ですでにつまずくか、それを飛び越すしかなくなるのだ。

このところ僕が超越を含めた全体のほうから議論をしているのはそのためだ。全体の限定として主観を考えれば、他の主観がどのように限定され、なおかつ〈この主観〉がどのように限定されるのか、という議論が展開できるかもしれない。

そのようなわけで、向日葵の種が出てくる。奇遇にもウィトゲンシュタインは、世界と主観の話をしながら向日葵の種のような図を描いて、「視野がこのような形をしていないのは確かだからである」と書いた。

f:id:shogoshimizu:20170321181917j:plain

 

 

 ボーロ

哲学対話における知的安全性とは?

このブログの文章、きわめて重要なことを言っている。とくに3ブロック目の対話がすごくいいと思う。

知的安全性とは、リラックスして何でも言える安心感のことではない。知的安全性とは、真理探求が邪魔されない、台無しにされないという安心感。だとすると自分も邪魔したり台無しにしてはいけないのだから、真理や知恵に対する畏怖や緊張感が生じるのは必然。

これは知的権威に対する畏怖や緊張感とはまったく違う。あくまで真理探求を前にして、自分が対話においてそれに貢献できるのかという考えから生じる畏怖、緊張感。

知的安全性とは、そのような畏怖や緊張感があったとしても、いや、そのような畏怖や緊張感があるからこそ、いま言おうとしていることを勇気とともに言ってもよいという後押しのことなのだ。

以上は僕なりの解釈、あるいは僕がこの人から学んだこと。

通俗的に理解されているような、「何でも言える安心感」という意味での安全性は、(このブログで言われているように子どもの場合などは別として)しばしば真理探求を妨げてしまう。真理探求とはほかの関心から話し続ける人、ただ権威や常識を無視したり挑発したりするためにずけずけ私見を述べる人、こういった人たちの声ばかり大きくしてしまい、緊張感をもって真理探求をしたい人は黙ってしまうのだ。

 

 

 ボーロ

哲学のための地味な作業

僕はイングランド分析哲学畑で論文指導を受けた経緯があるので、質疑応答といえば、第一に論証の妥当性チェック。論証の各ステップによる推論のチェックだ。第二には、問いと論証がもつ前提の真理性チェック(真偽の検討)。

これらをするうえでは、問いと論証にとって外的なもの(たとえば教養や質問者の意見)は不必要だし、しかもそれは忌避される。

ひたすら地味な作業である。そのうえ、この作業をするためには、発表される議論が、きちんと問いから始まっていて、結論までの論証が筋道立てて書かれていなければならない。つまり脇道なく地味に書かれていなければならない。

さて、日本に帰ると、一見論証的に書かれたり発表されたりしたものでも、問い→論証というように必ずしもなっていない。たとえば、問題や論争の文脈解説から始まっていたりすることが多い。

そうすると、そもそもの議論の形がどうなっているのかが気になってしまい、「地味な作業」以前の、細かい確認のための質問をたくさんすることになる。ここで、「この人は何を細かいことばかり言ってるんだろう、哲学をしたいのに」という雰囲気になることもある。

こちらとしては、その細かい確認作業がぜんぶ終わり、問いと議論が明らかにならないと、哲学は始められないと思っているのだ。(これでも最近は、細かい確認を少しあきらめたうえで哲学的な質問もできるようになってきたのだが…)

でもね、ゼミの後輩にあたるTさんなんかは、論文にコメントを付けると、細かい質問にもすべてぴっちり応えてくる。そうすると、議論の明瞭さや説得力だけでなく、哲学的な面白みも格段に増すんだよね。そして読んでいてスリリングなものになる。

しかもTさんは、すでに確認作業があまり必要ない議論を自分で組み立てられるようになってきている。哲学的直観にも秀でたTさんにとって、これは大きな武器だ。頭の中の思考でさえ鋭利で強靭なものになってきているのが、話していてわかる。

誤解のないように付け加えると、誰もが分析哲学のトレーニングを受けるとよいと言っているのではない。明晰かつ論理的に考えたいなら、そのための方法や伝統があるよということだ。その伝統はとくに分析哲学のものではなく、ギリシャにまで遡るものだろう。

 

 

 ボーロ