哲学の中庭

…と、真理の犬たち

世界を愛で満たすには

私の体は、動きたい方向を伝えてくる。*1

しかし日常生活は、

行かなければいけない場所や、

しなければいけない動作でいっぱいなので、

体の動きたい方向は無視されている。

 

体が空腹なら、

体は食べたい物への方向を伝えてくる。

ところが、体の伝えてくるものを

無視することに慣れてしまった人は、

その方向に気づかない。

だからレストランのメニューを見ながら、

途方に暮れてしまうのだ。

 

体の伝えてくる方向はかすかなものだが、

意識していると敏感さを育てることができる。

 

敏感な人にとっては、

メニューのリストは平板なものではない。

食べたい物への方向が投影され、

メニューの文字が促しの方向もって現れる。

 

そのとき、体に注意を向けることと、

メニューの文字に注意を向けることとが、

一体になっている。

 

さて、こうした敏感さを、

哲学探求においても培うことができる。

 

哲学探求は、そのときそのときで、

探し求めようとする方向をもっている。

自分の探求のためにノートを書くことで、

それを知ることができる。

 

自分の探求の方向を意識しながら

読書できるようになれば、

本の文字にその方向が投影され、

本の中に自分の探求の方向が現れるようになる。

 

これは、一般的に重要な点や、著者の要点が、

本の中で浮き出して見えるのとは違う。

本の文字によって、自分の思考が、

進むべき方向へと促されるようになるのだ。

 

このような敏感さを育てていけば、

やがて、動きたい方向、食べたい物の方向、

探求したい方向、話したい方向などが、

世界の中に見えるようになる。

 

つまり、世界は愛で満たされる。

出発点は、いま自分の体が動きたい方向だ。

 

 

 ボーロ

*1:Cf. エドワード・ミンデル。動いて行う道家の瞑想では、体の動きたい方向に身をまかせることができる。

古代から続く哲学対話に入る

哲学の伝統と、

伝統とは無関係な個人的観点との間の

葛藤あるいはダイアレクティックのない

哲学などあるだろうか。

 

たとえば、哲学対話の場合でも、

複数人で考えていることと、

一人で考えていることととが、

同時進行している。

 

参加者の一人一人は、

それらの間を往復することになる。

 

重要なのは、その往復によって生じる

ダイアレクティックだ。

いわば、複数人での思考と

一人での思考との間にこそ、

対話と葛藤が生じるべきなのだ。

 

このダイアレクティックは、

発言すれば複数人での思考になるかもしれないし、

そのまま一人での思考として続けられるかもしれない。

 

いずれにしても、対話の場であっても、

複数人で考えていることとは別にある、

一人で考えていることに注意を向けてみてほしい。

そう僕がいつも強調するのは、

このダイアレクティックこそが

本当の哲学だという考えがあるからだ。

 

哲学の伝統と個人的哲学にかんしてもそうだ。

古代から続く哲学対話の輪に、

哲学者は入る。

その輪の複数人が考えていることに、

ただ付き合って考えるのではない。

かといって、もちろん、

対話と無関係に一人で考えるだけでもない。

 

双方の思考の間に往復運動が起き、

それがダイアレクティックになったときに、

本当の哲学が始まるのだ。

 

 

 ボーロ

体に穴をあける叡智

友人に名医を紹介してもらい、

鍼灸院へ。

 

ふだんから違和感のある場所を

みごとに触わり当てられながら、

「これはかわいそうだ。

ここまで疲労していては

休んでいても治らない」

と言われる。

 

施術の最中から、

すでに素晴らしい効果を感じる。

いまも鍼付きのシールが

体のいたるところに貼ってあるが、

力強い巡りを実感できる。

 

ここにもなんという叡智が。

施術中の先生のお話によると、

この知識は一般化されたかたちに

することが難しいという。

 

医学だけでなく、

自然学、それから宇宙論にまで

結びついたこの叡智が、

一般化されにくいからといって

受け継がれないのはあまりに惜しい。

 

人類の叡智は

秘伝として受け継がれるものだが、

この叡智はそれを必要とする人、

またそれによって救われるであろう人が

多すぎるように思う。

 

 

 ボーロ

祭のあとの独り言

賑やかだった春休みが終わった。

楽しかったけど、

やっぱり賑やかすぎるのは向いてないな

…ということがちゃんとわかった。

カンテラを置いて、

ふたたび空気の薄い山の上へ。

 

この春休みは、

やり場が整っていないのに、

急にエネルギーが出てきてしまったようだ。

 

何かを変えるために

いろいろ発信しようともしたけど、

結局わかってくれる人は

最初からわかっている人だった。

僕にとって書くことや話すことは、

何かを変えるためにすることではない、

ということもちゃんとわかった。

 

わかってくれる人は

最初からわかっている人だから、

何も焦ることはないんだね。

 

今日はイングランドの春みたいで、

お祭のあとにはふさわしい天気だ。

 

 

 ボーロ

図書室の二人

小学校一年生のとき、

同じクラスに、ダウン症候群をもつ女の子がいた。

子どもの僕はそれが何なのかを知らないので、

少し特別な女の子というくらいに思っていた。

 

何やら大きな小学校というところや、

同年代の子たちに対する恐れがあったとき、

その子と接しているあいだは、

とても心が落ち着いたようにおぼえている。

 

クラスで図書室へ行き読書する時間には、

二人でカーペットの床に座って、

絵や写真の多い本をよく広げていた。

 

言葉はほとんど交わさなかったと思うが、

僕も絵や写真の多い本が好きだったし、

その子がところどころで興味を示すのに、

僕も興味を示していたのだろう。

 

常夏の図書室。

 

はてしなく長い、

一学期か数ヶ月かが過ぎたころ、

いつのまにかその女の子は、

面倒見のよい女の子たちに囲まれていた。

 

僕はいまと同じで、

状況を飲みこむのが苦手な子どもだったが、

何かが変わってしまったことがわかり、

かすかに寂しく思ったのをおぼえている。

 

 

 ボーロ

社会的能力と文明的能力

ある人は、自分の社会的能力に自信をもっていた。

しかし、食べること、装うこと、

声をかけることなどのもつ意味を知らなかった。

つまり、文明的能力をまったく欠いていた。

 

別のある人は、社会から距離をとろうとして、

文明からも離れてしまった。

つまり、ただの野蛮人になってしまった。

 

社会的能力はあるのに、

文明的能力を欠く人は少なくない。

その一方で、

社会的能力はなくても、

文明的能力をもつ人もまた少なくない。

 

後者のような人は、引け目を感じることなく、

また、ただの野蛮人になることもなく、

堂々と文明人としての道をいけばいい。

 

 

 ボーロ

「人間原理」とアキレスと亀

「なぜ宇宙はこんなにも秩序だっているのだろう?」

「何を驚いているんだい?

そのように問う複雑で知的な生物がいるということは、

当然宇宙は秩序だっているに決まってる。

何も不思議なことはないよ。」

 

たとえば「人間原理」という考え方は、この種の答え方をする。

問いが成立するための必要条件の中に、問いの答えを求めるわけだ。

 

もっとわかりやすい例を考えてみよう。

「どうして言葉が存在するのだろう?」

「何を驚いているんだい?

そのような問いを言葉で問えるということは、

当然言葉が存在しなければいけないに決まってる。

何も不思議なことはないよ。」

 

こう言い返してはどうだろうか。

「たしかにそうも言える。でもそれは、

『仮に問いを言葉で問えるなら、当然言葉がある』

という法則にすぎない。

これはたしかに当たり前のことで、不思議ではない。

だとしても、私はこう問いたい。

『どうして、仮にではなく現に、問いを言葉で問えるのか?』」

 

だが、こんな答えが待っているだろう。

「何を驚いているんだい?

『どうして、仮にではなく現に、言葉で問いを問えるのか?』

という問いを言葉で問えるためには、

当然言葉がなければいけないに決まってる。

何も不思議なことはないよ。」

 

〈現に〉がどうしても見えてしまうアキレスと、

「仮に」しか見えない亀とが、

ここでもおしゃべりをつづけている。*1

 

 

 ボーロ