哲学の中庭

…と、真理の犬たち

知への愛ではない、愛とは知りたいということ

哲学対話をすると、

わからないことが余計に増える。

 

けれども、いろんな問いが、

みんな深いところでつながっている、

ということはわかる。

そんなことをつくづく感じた

哲学カフェの日だった。

 

「恋愛感情は必要か?」

「人としてなくしてはいけないものは何か?」

「生きている価値とは?」

リテラシーとは?」

「気づきとは何か?」

「夫婦とは何か?」

「哲学とは何か?」

 ・

 ・

 ・

 

めぐろ哲学カフェでは、

あえて問いをしぼらずに、

1つの問いから対話を始めながらも、

問いどうしのつながりを

意識しながら対話を進めていく

ということをするときがある。

 

恋愛では、相手のことを知りたい。

哲学は、知ることへの愛。

リテラシーの根底にあるのは、

知りたいということ。

 

知りたい。

それが阻害されるから、

満たされないから、

おかしなことになる。

 

ということは、

それは必要なのだろうか?

なくしてはならないものなのだろうか?

 

知りたい。

どこまで知りたい?

 

 

 ボーロ

 

まさにここにあるもの

「哲学では、

一般的なものについてだけでなく、

個物について考えることができるんです。」

そう若者は言った。

 

何をわかったようなことを。

目の前の人間ですら見えてないくせに。

 

僕は言った。

「あなたは、ここにある筆箱や紙について

考えていますか?

これらこそが個物、特殊者です。

あなたは個物一般、普遍的な特殊者について

考えているにすぎません。」

 

若者はよく理解できないようだった。

すると、近くにいた女性が、

若者に向かって説明した。

 

「まさにここにあるものについて

考えなければ、

個物、特殊者について考えたことには

ならないということです。

まさにここにあるもの。」

 

まさにここにあるもの。

それは筆箱や紙のような

物ではないのかもしれない、と思った。

 

明け方の夢はそんな夢だった。

 

 

 ボーロ

翠玉白菜の中身はどうなっているのか?

台北故宮博物院にある

白菜のことを考えさせられていた。

翠玉白菜」と呼ばれているらしい。

 

 

たとえば、白菜の絵があるとする。

白菜は土の表面にできるものなので、

白菜が木の幹のうえに鎮座しているような絵を描いたら、

これは白菜の絵としては不正確だということなる。

 

(イメージ)

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絵について「正確」「不正確」を言えるのは、なぜか。

それは、絵が、絵のそとの世界を指しているからだ。

絵のそとの世界と照らし合わせて、

絵は正確だったり不正確だったりする。

 

さて、ここに正確な白菜の絵があるとする。

その絵を指して、

「この白菜は内側にも葉がついている」

と言うと、それは正しいことになる。

 

絵には、白菜の内側は描かれていない。

にもかかわらず、

「この白菜は内側にも葉がついている」

と言うと正しいことになるのは、なぜだろうか。

 

それは、やはり絵がそとの世界を指しているからだ。

そして、そとの世界の白菜は、

内側にも葉がついている。

絵がそとの世界を指していて、

その絵を指して人が話している、

というふうになっている。

 

 さてさて、問題の「翠玉白菜」である。

(なんでも鑑定団みたい。)

翠玉白菜について、

白菜の彫刻として正確かどうかを、

問うことができる。

それは、翠玉白菜が、

(彫刻の)そとの世界の白菜を指しているからだ。

 

そこで、故宮博物院翠玉白菜を指して、

「この白菜は内側にも葉がついている」

と言うとする。

 

周囲の人は変に思うかもしれないが、

これは正しい発言のはずだ。

白菜の絵がそとの世界の白菜を指すように、

翠玉白菜もそとの世界の白菜を指す。

それなら、白菜の絵を指して言って正しいことを、

翠玉白菜を指して言って正しくないはずがない。

 

ここで僕は考えてしまうのだ。

彫刻には、絵とちがって、

本当に内側がある。

翠玉白菜の内側はどうなっているのだろう?

 

翠玉白菜が正確な彫刻なら、

もしかすると、

翠玉白菜の内側には翡翠でできた葉があって、

そとの世界の白菜の内側にある葉を

(正確に)指しているのかもしれない。

 

でも、どうやってそれを確かめればよいのだろう?

どうやって翠玉白菜の外側の葉をはがせばよいのだろう?

 

こんなことを言ったとされる天才にならできるだろうか。

「すべての石の塊の中には彫刻がある。

彫刻家のつとめはそれを取りだすことだ。」

 

 

 ボーロ

「足」という2つの肉塊あるいは出入口

足首より下、

つまり足の甲・足の裏・足の指には、

筋肉や腱が細かくはりめぐらされている。

 

33の関節があり、

100以上もの筋肉・腱・靱帯があるのだそうだ。

 

 ▼ 参照

  The forgotten muscles in your feet

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(骨の数はなんと体中の約4分の1を占めるのだそう。)*1

 

ところが、足首から下というのは、

靴の中に閉じ込められていることが多い。

 

靴を履いていないときでも、

意識されることは少なく、

石のように放っておかれている。

 

これが非常によくない。

とくにストレスがあるときには、

足の中の筋肉でさえも緊張している。

たとえ意識されなくても、

足の中の筋肉は、次第にこわばってくる。

 

靴を履かないで座っているとき、

寝ているときに、

これらの筋肉を動かしてみる。

筋肉がたくさんあるので、

さまざまに動かせることに気づく。

 

足の指を曲げたり反らしたり、

つま先を開いて、

そのまま土踏まずを反ったり、

外側のほうをいろんな方向に曲げたり。

曲げるときや反るときには、

できるだけ力を入れるのがよい。

 

どこかの筋肉がつることもあるが、

これは非常によい。

我慢していると、痛みがやわらぎながら、

こわばりが解けていくのがわかる。

足が温かくなってくる。

 

そうこうしていると、

背中や肩の筋肉もほぐれていくのがわかる。

ときどき思いがけない場所に心地よい痙攣が起こる。

足のこわばりとゆるみは、

全身とつながっているようだ。

 

こうしたことを、

こんなふうに表現する人もいるだろう。

足からはエネルギーが出入りする。

そこがふさがっていると、

全身のエネルギーが滞ってしまう。

 

少なくとも気持ちはいいので、

よかったら試してみてください。

 

 

 ボーロ

 

*1:

何が循環を引き起こすのか? ~現象論的唯一性と形而上学的唯一性~

空間には、私を中心とした向きがある。

上下、左右、前後、のように。

 

さて、空間の向きの「中心」は唯一だ。

そう観念論や現象学は説明する。

だとすると、他人を中心とした向きは、

私を中心とした向きの、

何らかの仕方での複数化(分有)だということになる。

 

 この考え方をとれば、

「たくさんの身体があるなかで、

どれが私の身体なのかがわかるのはなぜか?」

という問いに対する答えは明快だ。

答えは、

「空間の中心は唯一で、

その中心にあるのが私の身体だからだ」

というようなものになる。

 

これは観念論または現象学なので、

各人(各主体・各主観)が、

そのようにして「私の身体」を

見つけていることになる。

 

では、こう問われたらどうだろうか。

各人にとっての中心があり 、

各人が(同じようにして)そこにある身体を

「私の身体」として見つけているならば、

そのうちのどれが私の身体なのかが

わかるのはなぜか?

 

観念論や現象学は、

先ほどと同じように答える。

「空間の中心は唯一で、

その中心にあるのが私の身体だからだ。」

 

この答えはやはり各人にあてはまるため、

問いと答えのあいだで

観念論的循環もしくは現象学的循環と

呼ぶべきようなものが起こる。

 

この循環を起こしているものは何なのか?

観念論や現象学は、

この問いに答えることができない。

せいぜい「唯一の中心」をふたたび持ち出して、

同じ循環を続けてしまうだけだ。

 

この循環を起こさないように、

独我論をとることもできる。

「各人」など存在せず、私だけが存在する。

だから「各人にとっての唯一の中心」

なども存在しない。

存在するのは「私にとっての唯一の中心」だけだ、

というように。

 

しかし、独我論をとらずに、

ここで循環を引き起こしているのが

何であるかを言うことはできない、

という方向で考える哲学者がいる。

永井均氏、入不二基義氏)

つまり、ここで循環を引き起こしているのは、

事象内容的な「本質」ではない、

〈実存〉もしくは〈現実性〉だという考え方だ。

 

この考え方は、

空間の向きによる身体の特定は

各人にとって起きている事象にすぎない、

という水準で問題を立てる。

だから、身体の特定は、

「どれが私なのかがわかるのはなぜか?」

のような問題とは無関係となる。

 

私はこの考え方の基本的な部分を受けいれ、

循環を引き起こしているのは、

私や世界を超越した何かだと考えようと試みている。

 

空間の向きの源泉が、超越的な何かだとする。

私の身体も他人の身体も、それどころか世界全体も、

そのような向きの中にある。 

 

ただ、私の身体だけが、超越的な源泉と特別な関係をもつ。

だからこそ、それが端的に私の身体であり、

それが私の身体だということが私に顕わになっている。

 

そのことによって循環が引き起こされるのだが、

内在的には、それは隠れてしまうというわけだ。

 

詳説はいずれきちんと発表したい。

 

 

 ボーロ

霊的経験の亡霊 ~近代以降の「経験」をめぐる循環~

友人と能を観た。

その友人がブログでこう書いている。

 

ところで、こうした宗教的祭典では当たり前のように霊的直観が、演者や作者のみならず観客にももたらされたことであろう。そうした霊的直観を、対象的に研究することは学問的に現代でも可能である。けれども、そのような霊的直観が駆動力となるような「学問」は、現代では「学問」とはみなされず、しかもそれゆえにこそ、価値が低いものとみなされる。しかし、これはどうしてなのだろうか?霊的直観がないような如何なるものも、誰にでも実行可能で大衆化した、それゆえに、価値の低い、通俗的で凡庸なものでしかないのに。

 

 ▼ 引用元

 

能が終わり、

もと来た参道を戻りながら、

強烈な霊的浄化の感覚が残っていた。

すると、古代ギリシャに通じた友人が、

カタルシス」という言葉を発したのだった。

 

(ところで、彼の言ったように、

現代において「カタルシス」という言葉は、

エンターテイメントもしくは見世物芸術の一形式である。)

 

近代以降の哲学では、

「経験」といえば

通常の感覚器官を通じた経験だ。

広い意味での「直観」も、

通常の思考や判断を含めるにすぎない。

 

霊的経験、霊的直観はどこへ?

 

近代以降の強固な前提は、

「多くの人が共通してもつ感覚経験だけが、

学問に寄与しうる」

という前提だ。

 

だから、ごく少数の人たち、

たとえば霊的感受性のある人たちしか

もたない感覚経験は、

学問に寄与するような経験とはみなされない。

 

これは必然的な前提ではなく、

どういうわけか採用されている前提だ。

 

しかも、この強固な前提は、

循環的に正当化される仕組みになっている。

 

事実、多くの人にとって、

人はみな同じような感覚器官をもっているように感じられる。

つまりそもそも、多くの人にとって、

人体というものは、みな似たり寄ったりのものにみえる。

このことは、

「人はみな同じような感覚器官をもつ」

という経験的な共通了解を形成する。

 

さて、くり返しになるが、

近代以降の「強固な前提」とは、

「多くの人が共通してもつ感覚経験だけが、

学問に寄与しうる」

というものだ。

当然のことながら、

この前提が採用されるうえでの大前提は、

「多くの人が共通してもつ感覚経験がある」

ということだ。

 

先ほどの「共通了解」は、

この「大前提」を正当化する。

すなわち、

「人はみな同じような感覚器官をもつ」

という経験的な共通了解は、

「多くの人が共通してもつ感覚経験がある」

という大前提を正当化する。

 

この正当化によって、

「多くの人が共通してもつ感覚経験だけが、

学問に寄与しうる」

という「強固な前提」を採用することが可能になる。

 

この前提が採用されると、

「多くの人が共通してもつ感覚経験」の寄与によって、

「人はみな同じような感覚器官をもつ」

という経験的な共通了解は、経験的「知識」となる。

 

するとこの「知識」が先ほどの「大前提」を正当化して…

…という循環によって、

「強固な前提」はその強固さを確たるものにしていく。

 

ここでは近代以降の「経験」を取りあげたが、

近代以降の「直観」を取りあげても、

類比的な循環がみつかるだろう。

 

冒頭の引用は、

「霊的直観がないような如何なるものも、誰にでも実行可能で大衆化した、それゆえに、価値の低い、通俗的で凡庸なものでしかないのに」

という文でしめくくられている。

おそらく、そのような「大衆化した」知的正当化システムを、

近現代人はすすんで選んだのだ。

 

 

 ボーロ

探求者にとって〈教養〉とは

「教養とは何か?」

これについては様々な考えがあるだろう。

ただ、こんな暗黙の共通理解があるのではないか。

「教養とは、広く共有された古典的知識のことだ。」

 

だから、「教養」を踏まえたコミュニケーションでは、

共有された知識にまつわる

情報交換や意見交換が行われがちだ。

 

そこでの「面白い話」とは何か?

それは、新奇な情報、一風変わった意見だ。

つまり、「小ネタ」の交換、応酬をめざして、

コミュニケーションが行われることになる。

 

探求者がそこに居合わせたならば、

間違いなく退屈して、早く抜け出したがっている。

知的なコミュニケーションは

「小ネタ」の発表会にすぎないのか。

「教養」はそんなもののためにあるのか。

 

探求者にとっての〈教養〉は、

探求の道筋の周辺をなす古典的知識だ。

 

自分とは異なる探求をする他者と出会い、

対話をすると、

奇しくも共通する古典的知識が

お互いの探求の周辺をなしていることがわかる。

そういうことがある。

それは驚くべきことで、新たな発見だ。

 

そのような僥倖が、

古典的知識を古典的なものにし、

普遍的なものにしている。

 

別々の探求どうしが、

それぞれの周辺である〈教養〉において邂逅する。

そのような対話を知らない人たちが、

はじめから「教養」を共有物として真ん中に据え、

それについての「小ネタ」を出しあっているのだ。

 

 

 ボーロ