哲学の中庭

…と、真理の犬たち

苦しみとの結合

ひたすらに慈愛を説くキリスト教

慈愛は苦しみを生むが苦しみをも受容せよと。

 

はたらくのは結合の原理。

結合は苦しみを生むが、

苦しみとさえ結合する生のありかた。

結合の大体系化としての生。

 

分離の原理によって

一なる始元に近づこうとするのが

仏教だとすれば、

結合の原理によって

一なる始元に近づこうとする

キリスト教

 

 

 ボーロ

洗礼のパラドックス?

オックスフォードの年輩の哲学者たちと

食事をしていたら突然、

一人がかしこまって

僕のほうを向き、

 

「皆で話し合って、

ショウゴにキリスト教の洗礼を

受けてもらうことにしたよ。」

 

唖然としたものの、

(英国流?)冗談だった。

 

けれども、

洗礼のもつ意味を信じていないなら、

洗礼を受けたって何ともないはずでは?

 

あるいは、

洗礼には宗教的意味だけでなく

社会的意味があり、

それを信じているから

受けないのだろうか。

 

しかし、

洗礼の社会的意味だけを

信じているのであれば、 

「あくまで一つの異文化体験として

洗礼を受ける」

という但し書きを付けることも

可能なのでは?

 

あれ以来、 時々そんなことを

あれこれ考える羽目になった。

 

洗礼のパラドックス

 

 

 ボーロ

本に呼ばれるという試練

本屋に呼ばれるときは、

本が呼んでいるのかもしれない。

 

八重洲ブックセンターには、

哲学コーナーのあるフロアより

上の階に行こうとすると、

こんな試練まであった。


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いまはエレベーターがあるらしい。

この看板、いまはいずこ…

 
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 ボーロ

知への愛ではない、愛とは知りたいということ 2

前にも書いたように、

フィロソフォスという人間は、

知を愛するというよりも、

愛するからこそ知りたいのだ。

 

「何を探求するのかを

すでに知っているのでなければ

探求はできないではないか。」

 

この「探求のパラドックス」への

応答はこうなる。

 

私は、愛のはたらきがあることを、

内側から知っている。

そのはたらきが

どこへ向かうのかをこそ、

探求したいのだ。

 

 

 ボーロ

根源的遭遇のための対話

昨日の哲学対話では、

ああ今日はこの対話があってよかったと

確信をもてる瞬間が現れた。

 

真実の瞬間だ。

 

それは本当に一瞬のことで、

一人の方が、

魂の底から言葉を発したのだ。

 

その声、意味、表情は、

謎として記憶に刻まれる。

 

僕が対話の場を開くとしたら、

開きたいのは、

そのようなことが起こりうる場所。

真実との根源的な遭遇が起こりうる場所。

 

そのような遭遇の瞬間は、

目立たないことが多い。

それが起こりうる場所のための配慮も、

目立たないものだ。

 

それでも、真実の瞬間は、

それを待つ人のもとに訪れる。

 

 

(だから、僕にとって「ファシリテート」することは待つこと。「ファシリテーター」としての発言は「もう少し待ちましょう」のみというのが理想。)

 

 

 ボーロ

〈存在〉するための〈借り〉

宇宙の始まりと

進展と終わりについての、

面白い説を聞いた。

 

宇宙は、

エネルギーをどこからか

借りてきたから

始まることができた。

宇宙が膨張しているいまは、

それを返している最中なのだ、と。

 

どういうわけか存在している私に、

この説があてはまるとしたら、

どうだろうか?

 

私は、

借りをしたから

生まれてくることができて、

何かを返すために

生きているのかもしれない。

 

だとしたら、何を?

 

ゲームに例えるとしたら、

こうだろうか。

 

私が人生というゲームに参加するために、

前借りをしたのだとしたら、

その目的は、

前借りを返すことにあるのかもしれない。

 

だとしたら、誰に?

 

 

 ボーロ

しっぽとアース

最近はあまり見なくなった気もするが、

車のうしろから垂れ下がっているヒモ、

あれは電気を地面に逃がすためのものだ

という話があった。

 

電化製品だとアースという線があって、

これも電気を地面に逃がすための線。

 

しっぽは脊椎動物にとって

このアースみたいなものだという

仮説を昔から信じている。

 

しっぽをよく動かす犬は、

豊かな感情とともに生じる

大きなエネルギーを

体の中にためこまないよう、

ああやって外に逃がしている。

 

猫はストレスを感じるとしっぽを動かす。

よくないエネルギーを外に逃がしているのだ。

 

残念ながら人間にはしっぽがない。

だから、余分なエネルギーがたまってくると、

坐骨や腰骨に神経痛を起こしてしまう。

 

しっぽというアースさえあればよいのに、

ないものだから、

人間は余分なエネルギーを逃がすために、

脊椎動物としては余分な

エクササイズや活動をする。

 

さて、なぜ人間はしっぽをなくしたのか?

まさか余分なエクササイズや活動のためではあるまいな。

…と疑いながらも、

そうかもしれないと少し思っている。

 

 

 ボーロ