哲学の中庭

…と、真理の犬たち

オチのある夢

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たまに、オチのある夢を見る。

 

小型ドローンが、

家の窓のところに飛んできて、

窓の向こうのレンガに着地する。

 

「爆弾よ!」と母が叫ぶ。

 

僕は窓を開けて、

できるだけドローンに近づかないようにしながら、

ドローンを長いトングでつかみ、

向こうへ投げる。

 

爆発する!

 

…と思ったが、

爆発は起こらず、

ドローンはまた窓のところに飛んでくる。

 

なぜうちが標的に?

 

ドローンをよく見ると、

「3M」と書いてある。

 

ドローンの中には爆弾ではなく、

母が注文した白いポストイットが入っていた。

 

 

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夢からさめて思うのは、

オチの前に目がさめたとしたらどうなのか、

ということ。

 

小型ドローンが

3Mのものだということが判明する前に

目がさめたとしたら、

ドローンの中には

何が入っていたことになるだろう?

 

 

 

ボーロ

(おーいほかの犬たちどうした。)

哲学書を哲学書として読むには

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 ライプニッツと書簡を交わしたゾフィーシャルロッテ王妃*1

 

哲学書を、

文学作品のように読んでいては、

いつまでたっても哲学はできない。

 

哲学書を読むと、

世界が違うしかたで見えたりする。

たしかに哲学書には、

その種の、芸術のような効果もある。

しかも、その効果は、

必然的に伴われるものかもしれない。

 

しかしながら、

それは、哲学書を哲学書として読む

目的ではけっしてない。

 

世界の新しい見えかたを、

いくら味わっても、

それは芸術的な体験であって、

哲学をすることではない。

 

また、複数の哲学書をもちだして、

異なる世界の見えかたを比べたりしても、

それは芸術評論、文芸批評にこそなれ、

哲学をすることにはならない。

 

では、どうすれば哲学をすることになるのか。

 

ここにくると、哲学はいつもシンプルだ。

問いを立てて、言葉を使って考える。

それに尽きる。

読書をしているときでも、

それは変わらない。

 

でも人間は、

シンプルなことをただやること、

ただやり続けることが、

どうも苦手なようなのだ。

 

 

ボーロ

*1:Attributed to Jacques Vaillant

愛知者にとって他者とは

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知を愛する人にとって、

固執は大きな妨げとなる。

 

知に少しでも近づくためには、

いまの自分の考えから

とにかく動かなければならない。

 

考えを変えずにとどまっていては、

知に近づくことは当然できない。

 

ただ、「考えが変わる」といっても、

自分の考えの体系(信念体系)の

周縁にある考えが変わることなら、

日常でもよくある。

 

(ちょっとした勘違いや、

情報不足による思い違いは、

あらためることがそう難しくない。)

 

その一方で、自分の考えの体系の、

中心部分をなす考えは、強く保持されている。

 

そのような考えが変わるためには、

よほど衝撃的な経験をしなければならない。

自分の考えの体系が破壊的な打撃を受け、

統合を失うような経験だ。

 

そのようなできごとは、

何度も起きるわけではない。

 

だから、知を愛する者にとっては、

慎ましさが美徳となる。

 

たとえば、師と仰ぐ人をもつ。

その人が、

私の体系の中心をなす考えと

食い違うことを言ったなら、

私の考えを変えてみることができる。

 

いわば、鵜呑みにしてみる。

自分で検討したうえで賛否を判断すると、

その検討や判断を支える考えは、

いつまでたっても変わらない。

 

ここで肝心なのは、

〈師〉にあたる他者を、

自分の考えの体系に組み込まないこと。

 

たとえば、

「この人の言うことは正しい」

ということを、

自分の考えの一つとして、

考えの体系に組み込んではいけない。

そうすることは、

自分のその考えに固執することだからだ。

 

自分の考え、検討、判断、

そうしたものの外から否応なしにやってくる。

そういう他者がいてくれるといい。

(対話とはそういう他者に出会うこと。)

 

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ボーロ

「二人静」について ~能舞台にみえるものとみえないもの~

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観世能楽堂へ行った。

能の演目は「絵馬」と「二人静」。

狂言は「柑子」。

 

能を観にいくのは、

この世ならぬものをこの目で見るため。

 

狂言を観るのは、

意味を脱した滑稽で笑うため。

 

いわば、能はこの世を上に超えており、

狂言はこの世を下に超えている。

 

能は、この世ならぬものを出現させる。

出現させ、浄化がもたらされる。

それにより、観る人間も浄化される。

 

現代の通俗的カタルシスでは

遠く及ばないことが起こるのだ。

ギリシャ的観点からの考察は

こちらの記事を参照。)

 

さて、ここは哲学の中庭なので、

無粋な哲学を書こう。

 

「絵馬」は、

天照大神、天鈿女命、手力雄命の三神が出現し、

天岩戸隠れを再現するという、

宇宙的スケールの祝祭。

神々の直線的な動と静が、

天体の運動のようでもあった。

 

二人静」には、上の写真のように、

二人の静御前が出現する。

一人は、静御前に憑かれた女。

もう一人は、静御前の霊そのもの。

 

だから、一人は生きた人間の体をもって

そこに存在するのだが、

もう一人はそうではない。

この決定的な違いにもかかわらず、

二人はまったく同じようにして

そこにいるように見える。

 

能には、

人間に憑いた霊が出現することがある。

この場合、人間の体という姿が、

誰の目にも見える設定になっている。

 

それに対して、「絵馬」のように、

神々や霊そのものが出現する場合には、

人間の体はそこにはないことになっている。

つまり、誰の目にも見える姿がそこにあるのかどうかは、

曖昧な設定になっている。

 

能は生きた人間の体を使って演じられるため、

これら二つの場合を、

舞台上で明確に区別することはできない。

(観る側が設定を投影しながら観るしかない。)

 

そのことを逆手に取り、

二人静」は決然と訴える。

それら二つの場合は、同じことなのだ、と。

 

 

ボーロ

愛と知の循環

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 ▲ ミカエルとルシフェル*1 

 

 

否定することが

いけないことだとしたら、

どうしていけないのか。

 

否定された側を傷つけるから?

否定された側に不利益を与えるから?

自分自身の経験を狭めてしまうから?

 

 ▼ 雷神インドラは、蛇の怪物ヴリトラを退治する*2

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ある尊敬する方が、

「否定するのに知恵はいらないからね」

と言った。

  

そうか。

否定するのに知恵はいらない。

肯定するには知恵がいる。

 

知恵のためには愛が必要で、

愛のためには知恵が必要なのだ。

 

 ▼ ゼウス対テュポン*3

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ボーロ 

*1:ルーベンスと工房,ティッセン=ボルネミッサ美術館(マドリード),1622頃

*2:チェンナケーシャヴァ寺院(インド)

*3:州立古代美術博物館(ミュンヘン),紀元前540年頃

いまよみがえる悪夢

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哺乳類としての私たちの祖先は、

1億年以上も前から、

恐竜をはじめとする

爬虫類におびえながら生きてきた。

 

そして、いまだに私たちは、

たとえば森に入れば、

蛇におびえなければいけない。

 

1億年以上の恐ろしい記憶が、

私たちの奥底にはある。

 

その深い奥底から、

大蛇やドラゴンなどと争う、

夢と物語が生みだされてくる。

 

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脊椎動物としての私たちの祖先は、

5億年以上も前から、

節足動物におびえながら生きてきた。

 

殻を乗せた足に捕えられ、

針に貫かれ、

刃に削がれる。

 

5億年以上の恐怖の記憶が、

私たちの奥底にはある。

 

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このところ、

人間がロボットと争う物語を、

ますますよく目にするようになった。

 

むしろ、機械が進歩してくれれば、

ロボットとの争いなど

非現実的ではないだろうか。

 

いや、それ以上に、機械の進歩は、

私たちの深い深い奥底にある、

節足動物の悪夢を刺激し、

よみがえらせていると思われる。

 

ロボットたちの装甲は、

人間の肉と骨格を

ものともせず砕く。

 

私たちが見ているのは

未来の機械との対決であると同時に、

はるか太古の節足動物との対決なのだ。

 

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ボーロ

*1:ヘラクレスヒュドラ, Attributed to the Diosphos Painter, 500-480 B.C., Musée du Louvre, Paris

*2:ドラゴンを退治する聖ゲオルギウス, ベルナート・マルトレル, 1430-1435 A.D., Art Institute of Chicago

*3:ウミサソリ, エルンスト・ヘッケル『生物の驚異的な形』, 1904

*4:ギュスターヴ・ドレ, ダンテ『神曲 地獄篇』の挿絵, 1867

目の前にいる私を見て

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目の前にいる人に、

何者として扱われたいだろうか。

何者として見られたいだろうか。

 

〈人間を、

たんに手段としてのみ用いてはならず、

同時に目的とせよ〉

というカント的な義務がある。

 

しかし、

この義務を果たすための手段として、

人間を用いてよいのだろうか。

 

実際、

この義務を果たそうとする人が、

私を目の前にして、私のことを、

この義務が果たされる人間の一人として

見ようとしていたら、どうだろう。

 

つまり、私のことを「目的」の一つとして

見ようとしていたら、どうだろう。

 

私をそんなふうに見ないでくれ。

そんな義務やら理念やらを当てはめて見ないでくれ。

私はたった一人の生身の存在として、

あなたの前にいる。

そう言いたくはならないだろうか。

 

存在論的に、実存は本質を超える。

倫理的には、実存は理念にとっての手段へと後退する。

 

 〈人間を、

たんに理念を当てはめてではなく、

同時に実存として見よ。〉

 

仮にそのような理念を立てたとしても、

目の前にいる人間は、

そのための手段へと後退してしまうのだ。

 

 

ボーロ