哲学の中庭

…と、真理の犬たち

哲学と対話の間のパラドクシカルな循環

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日本哲学ラクティス学会第一回大会に行ってきた。

そこ(で、発表するわけでなく、一人で勝手に考えるため)に密かにもって行った問いは、

(なぜ)哲学者は/が(哲学)対話の実践に参加する(べきな)のか?

 

ここで私が考える哲学者とは(哲学教育や臨床哲学などを含む)哲学プラクティスそれ自体の研究者ではない。

そうではなくて、他の(おそらく伝統的な)哲学の専門分野で自らの問いをアカデミックに探求する者である。

もちろん哲学プラクティスに関わるところで自らの問いをアカデミックに探求する人もいる。

しかし、ここで私が考えるのは、たとえば、帰納や時間の問題に関する自らの問いを探求するため、『人間本性論』のような古典を読み、ヒューム哲学の先行研究を学び、論文を書いたり、発表をしたりする、そんな哲学(研究)者である。

 

また、(哲学)対話が実践される場としては、たとえば町の哲学(対話)カフェが考えられるが、そこに参加する人のほとんどは哲学(研究)者ではない。

たしかに、哲学(対話)カフェを運営する人の中には、過去に大学(院)で(哲学プラクティスでない)哲学を研究した人がたくさんいる。

だが、哲学(対話)カフェを営む人の多くは、現在はやはり哲学プラクティスを専門にするのではないか。

実際に町の哲学(対話)カフェには一体どれほどの哲学(研究)者が参加しているのだろうか。

 

さて、個人的なことを言えば、私は哲学カフェに参加する哲学(研究)者である。

まず私はヒューム(の哲学)を研究し帰納と時間の問題を探求する哲学者である。

しかし、私は今年の四月から東邦大学の哲学カフェに参加させてもらっている。

そこでは物理学科や看護学科の学生たちと(哲学)対話を実践するのである。

では、なぜ私は東邦大学の哲学カフェに行くのか?もちろん、この問いに素直に向き合うのなら、楽しいからと答えることになる。

だが、私が学会にもって行った問いで考えたかったのは、そんな個人的な動機ではなく、哲学(者)と(哲学)対話のもっと一般的な関係である。

そこで私の問いは二つに分かれることになる。

つまり、哲学(者)にとって(哲学)対話とは何なのか?そして、(哲学)対話にとって哲学(者)とは何なのか?

 

第一に、哲学(者)から(哲学)対話を見てみると、

哲学(者)にとって(哲学)対話は手段である、

と言える。

 

とはいえ、そもそも(哲学)対話とは何か?

たとえば、『パイドン』に(哲学)対話の原型を見る中島義道は、(哲学)対話とは「真理を求めるという共通了解をもった個人と個人とが、対等の立場でただ「言葉」という武器だけを用いて戦うこと」(中島義道『〈対話〉のない社会』PHP新書,1997年,122頁)である、と述べている。

なるほど、ソクラテスと弟子たちの(哲学)対話が(哲学)対話の原型であるのなら、
(哲学)対話は理想的には目の前の他者と直接にライブで為されるべきかもしれない。

というのは、生の(哲学)対話にはたしかに即興の醍醐味があるからである。

だが、それが真理を求める他者との「言葉」を用いた闘いであるのなら、誰かの書いた哲学書を私が読むことや、私の書いた哲学論文を誰かが読むことも、(哲学)対話には含まれることになる。

すなわち、哲学(研究)者が自らの問いを探求するためアカデミックに為すことは、(広義には)すべて(哲学)対話なのである。

 

だから、うまく哲学を(研究)するためには、(哲学)対話がうまくなければならない。

 

哲学(研究)者は、古典や先行研究を読むときには、それらの作者と(哲学)対話しなければならない。

また、論文や本を書くときには、それらの読者と(哲学)対話しなければならない。

哲学(研究)者は自らの問いをそのように探求すべきなのではないだろうか。

だから、私の考えでは、哲学(研究)者(を目指す人)は(哲学)対話の実践に参加するべきである。

生の(哲学)対話(こそ)が、――それが実践知であるのなら、――(哲学)対話する力を鍛えるからである。

自らの問いをちゃんと哲学(研究)したい人は(哲学)対話する力を実践でちゃんと身に付けるべきなのである。

 

第二に、(哲学)対話から哲学(者)を見てみると、

(哲学)対話にとって哲学(者)は指針である、

と言える。

 

これは学会の「よい問いとは何か?」を考えるワークショップで私が気が付いたことである。

どんな問いであれ、問いは(哲学)対話を(どこかに)進める。だが、よい問いが(哲学)対話をよくするのなら、(哲学)対話ではよい問いが発せられるべきである。だが、たとえば哲学(対話)カフェでは、どんな問いがよい問いなのか?

それはもちろん哲学的な問いである。さもなければ、それは哲学(対話)カフェである必要はないからだ。

すなわち、それが哲学の対話であるのなら、そこで求められるよい問いとは、哲学的(によい)問いに他ならないのである。

 

たとえば、ワークショップでの例を借りれば、「無人島に何か一つだけ持っていけるとしたら?」という問いは、(哲学)対話を(直接に)よくするわけではないので、(哲学的に)よい問いではない。

しかし、そこから、「あなたにとって生きていくために欠かせないは(何か)?」という問いや「どうしても生きていかなければならないの(はなぜ)か?」という問いが生じるのなら、そのときに(哲学)対話は(哲学的に)よい方向に進むことになる。だから、それらの問いは(哲学的に)よいのである。

だが、それらが(哲学的に)よい問いであると分かるには、そもそも哲学(的とは何か)が分からなければならない。

もちろん、問いの(哲学的な)よさは、それが問われたときでなく、回顧的に(のみ)明かされることはある。

しかし、それが(哲学)対話を(哲学的に)よい方向に進めたと分かるのは、そもそも哲学(的とは何か)を知っているからなのである。

 

ちゃんと哲学(研究)をしている人ほど、(哲学)対話で(哲学的に)よい問いをちゃんとすることができる。

だから、(哲学)対話の実践には哲学(研究)者が参加するべきなのである。哲学(者)は(哲学)対話の指針となるからである。

 

だが、すると、哲学(者)と(哲学)対話の間にはパラドクシカルな循環があることになる。

なぜなら、ちゃんと哲学(研究)をするためには、ちゃんと(哲学)対話ができなければならないが、

(哲学)対話でちゃんと(哲学的に)よい問いをするためには、ちゃんと哲学(研究)をしていなけばならないからである。

 

しかし、だからこそ、哲学(研究)者は(哲学)対話者でなければならない。

哲学(研究)と(哲学)対話が互いに循環するのは、それらが本当は同じ一つの営みだからである。

だから、哲学(研究)者は(哲学)対話するべきである。そして、(哲学)対話者は哲学(研究)するべきである。

とはいえ、本当に哲学対話はすればするほどうまくなるのだろうか?

誰にでも哲学対話はできるのだろうか?

 

 

フィナンシェ

 

ポジティブな1 ~マジカルな哲学対話~

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ハワイの先生方は、「子どもの哲学」をやっていると訪れる感動的な体験を、"p4c magic" という言葉で表現していた。

 

哲学カフェでの対話は「子どもの哲学」とは少し違うかもしれないが、それでもマジカルな瞬間は訪れる。

 

東邦大学の哲学カフェは、今年度から木曜日から火曜日へ引っ越して、哲学仲間の成田さんにも来てもらえるようになった。

そんなリニューアル後、じつは一人も学生が来ない日なんかもあったが、このところ色んな学科の人が寄ってくれるようになり、マジカルなことが起きるようになってきた。

 

本当に、場所の醸成というのは、まずは誰もいないところに、色んな人が寄ってくるようになるところから始まる。

 

昨日は、物理学科、看護学科、化学科の学生たちが寄ってくれた。

 

看護学科からの2人は、哲学カフェの場所で急遽特別に、ポジティブ思考のプレゼンテーションを披露してくれた。

いまの僕にぴったりで、すごく励まされて元気が出た。

妖精さんたちかと思った。

 

物理学科の学生たちは、「1って何?」について鮮烈な問題提起してくれて、びっくりするほどエキサイティングな議論をくり広げてくれた。

物理法則は、なぜか式で表される。

たとえば、y=ax という式があるとする。

ここには具体的な数が含まれていないようで、じつは「1」が含まれている。

つまり、1y=1ax ということ。

「1」はこのように、数式や物理法則にどこまでもつきまとう。

この「1」って何?

 

「×1」、つまり「1つある」ということ?

あるいは、「÷1」、つまり「2つ以上に割らずに1つ」ということ?

あるいは、「×1÷1」ということ?

 

物理学科の一年生の男子学生は、

「1とは〈存在する〉という意味だ」

という、〈1の存在説〉を考えた。

とにかく何でもいいから、何かが存在したら、それを1つと見なせる。

だから、たとえば a につきまとう 1a の 1 は、「a が1つ存在する」ということ。 

a が存在しなければ、1aでなく0a になり、ゼロ。a は消えてなくなる。

 

それに対して、同じ物理学科の一年生の女子学生は、

「1とは〈それを基準とする〉という意味だ」

という、〈1の基準説〉を考えた。

とにかく何でもいいから、何かを1つと見なして、それを基準にすることができる。

そこにあるお菓子を1つと見なせば、それを基準にして、お菓子2つ、お菓子3つ…が言えるようになる。

 

「でも、そのお菓子が存在しなくなったらゼロでしょ?お菓子が存在するから、それを1つと呼んで、基準として使えるんでしょ?」

〈1の存在説〉を考える男子学生は、〈1の基準説〉をそう批判する。

 

それに対して、〈1の基準説〉を考える女子学生はこう言う。

「存在するからって、なんでそれが1なの?それを人間が1って決めて基準にするからじゃん。」

1は、あくまで人間が決めているものだというのだ。

 

座標、時間、身のまわり…。舞台を次々に移して応酬はつづく。

 

やがて、〈1の基準説〉を考える女子学生は、どんな基準を1と決めても、

「それが存在するからそうできるんでしょ。存在しなかったらただのゼロじゃん」

と返されてしまう。そんなパターンが見えてきた。

 

そして女子学生は、半ば呆れてつぶやくように、こう言ったのだった。

 

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ボーロ

問いが欲しがるものと、哲学者が欲しがるもの

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コーハンさんのワークショップに

参加して学んだ最大のことは、

問いが欲しがっているのは答えではない

ということだった。

 

コーハンさんが言ったように、

問いを見ると、答えたいという衝動がわく。

その衝動は、いわば錯覚だ。

問いは答えを欲しがってはいない。

 

では、問いは何を欲しがっているのか。

それは〈思考〉だ。

問いは、〈思考〉を欲する。

 

上の写真のように、紙に自分の問いを一つ書く。

その問いの下に、誰かに問いを二つ書いてもらう。

それらの問いの下に、自分で問いを一つ書く。

 

こうして、問いに問いを重ねていく。

問いと問いのあいだには、思考がある。

最初に書いた問いよりも、

最後に書いた問いのほうが、

より思考を欲する問いになっていることに気づく。

答えのための糸口ではなく、

思考のための糸口が、

そこここに開いた問いになっている。

 

さて、一夜明けた今の僕の問い。

問いと思考、新たな問いと思考、新たに新たな問いと思考…

その果てには何がある?

 

友人犬のマフィンが昨夜バーで言ったのは、

それは真理に向かっていなければならない

ということだった。

 

さすがマフィンだ。

たしかにその視点は、この二日間の会に

欠けていたものだったかもしれない。

 

問いは思考を欲しがるが、

思考する私たちは、知を欲しがるのだから。

 

それとは別にマフィンが指摘したのは、

この二日間での質疑の時間の大半が、

悩み相談の時間になっていたということだった。

 

悩みや困りごとは、答えを欲しがる。

その限りで、それらは問いではない。

本当に問いの大切さを実感したなら、

質疑の時間は、

問いと思考のための時間になったはずなのだ。

 

ただ僕は、サイレント・マジョリティに勇気づけられた。

サイレンスは思考のしるしだ。

僕が自分の発表で提起したかった問いは、こうだ。

たとえば臨床哲学者が病院に行き、病気の人と対話する。

病気の人にとっての本当の問題は何か。

対話をつうじた探求によって、

問題を考えるための概念を共同でつくっていく。

そこで病気の人は、こう尋ねてもいいはずだ。

「ところで、哲学者がどうしてこんなことをやっているんですか?」

対話相手を探す哲学者は、独自の問題を抱えているはずなのだ。

一人で研究して思索していることに問題を感じて、

やがて問題を感じすぎて、いてもたってもいられなくなり、

外へ飛び出したはずなのだ。

 

まさに僕自身が、そんな問題を抱えている。

しかも、その問題が何なのか、自分でもはっきりとわかっていない。

子どもたちや色んな大人に会いにいくのは、

その問題を何とかしたいと思っているからではないだろうか。

 

それなら、子どもたちや大人に、

「なんでこんなことやってるんですか?」

と本当は聞いてもらいたいはずだし、

聞いてもらって一緒に考えることができたら、

一緒に言葉をつくっていくことができたら、

どんなに素晴らしい対話になることだろうと思う。

 

もっと言えば、

「なんでこんなことやってるんですか?」

と思わず聞きたくなるような、

それくらいあやしい人としてそこにいないなら、

僕は何かを隠しているんじゃないか、

そういう疑いにつきまとわれて然るべきだと思う。

 

そんな対話は可能だろうか。

どうやったら可能だろうか。

 

サイレントだった人たちの何人かに、

この問いを受けとってもらえていたことを、

あとになって声をかけてもらい、

知ることができた。

 

いつもながら、勇気は裏切らない。

勇気を出して問いを発すると、

言葉を贈ってくれる人が必ずいる。

 

 

 

ボーロ

「まともではない人間」とは何か? — 人間探求にまつわるパラドックス

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ヴィクトール・フランクルは、

強制収容所の監視者たちを観察した経験から、

このように書いた。

 

こうしたことから、わたしたちは学ぶのだ。この世にはふたつの人間の種族がいる。いや、二つの種族しかいない、まともな人間とまともではない人間と、ということを。このふたつの「種族」はどこにでもいる。どんな集団にも入りこみ、紛れこんでいる。*1

  

「まともではない人間」が、集団のなかで

何かしらの力(power、権力)を手にしたとき、

そこは地獄へと変わる。

 

「まともではない人間」はその力によって

希望さえ根こそぎ奪いにかかる。

「この集団を抜ければ地獄は終わる」

という希望さえ。

 

であれば、人間が集団のなかで生きていく以上、

「まともではない人間」を何とかすることは、

緊急かつ必須ではないだろうか。

 

だがそこで、私たちはうろたえざるをえない。

 

そもそも「まともではない人間」とは何か?

 

この問いを発するのはもっぱら「まともな人間」で、

ここで「まともな人間」は、

永遠に理解不可能かもしれない対蹠の種族について、

自らの側から知ろうせざるをえないことに気がつくのだ。

 

 

 

ボーロ

 

*1:『夜と霧 新版』池田香代子訳、みすず書房、2002年、144~145頁。

青年的隠者

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隠遁するのは

人の世に疲れた老人だけではない。

 

人の世を恐れる青年もまた、

その魂を内に隠遁させている。

 

その純粋さ、潔癖さによって、

青年の内に、核、もしくは道が、

ようやく形をなしはじめる。

 

そのとき、恐れから一転、

青年は自らの魂を、

外へ放りださねばならない。

 

内に形をなしはじめたものに対して、

世界はあまりに広く、

人間はあまりに深く、

真理はあまりに遠いからだ。

 

 

 

ボーロ

この紋章がおわかりになるだろうか?

 

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これはフルール・ド・リス、いわゆる「百合の紋章」。

フランス王家やフィレンツェの紋章としてよく知られる。*1

 

菖蒲の花を模しているとされるが、

さらにさかのぼれば蜜蜂の形に由来するという説もある。

 

f:id:shogoshimizu:20180524112649p:plain*2

 

 

ところで個人的には、

インド由来のヴァジュラとの類似は

偶然ではないのでは、と疑っている。

 

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さて、ここからが本題である。

これを見ていただきたい。

 

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 一体何の紋章か、おわかりになるだろうか。

 

 

 

そう。

これこそが神聖なる、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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猫鼻の紋章である。

 

  

 

ボーロ

*1:フィレンツェの紋章には花のおしべがある。

*2:マンリー・P・ホール『新版象徴哲学大系II 秘密の博物誌』大沼忠弘・山田耕士・𠮷村正和訳、人文書院、1981年、139頁。

*3:ヴァジュラを持つ雷神インドラ

指し示され動きはじめる闇

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私はなんと小さいのだと、

思い知らせてくれる師がいることは、

幸いなことだ。

 

偉大な師は、

誰にも見えていなかった闇を、

初めて指し示す。

 

その闇は、世界の深層であり、私の深層。

 

その闇の深さを、私は思い知る。

その闇の深さに比して、私はあまりに小さいのだ。

 

闇は、指し示されたことによって、

胎動をはじめる。

闇は、私によって明るみに出されることを、

欲しはじめるのだ。

 

 

 

ボーロ