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哲学の中庭

…と、真理の犬たち

哲学のための地味な作業

僕はイングランド分析哲学畑で論文指導を受けた経緯があるので、質疑応答といえば、第一に論証の妥当性チェック。論証の各ステップによる推論のチェックだ。第二には、問いと論証がもつ前提の真理性チェック(真偽の検討)。

これらをするうえでは、問いと論証にとって外的なもの(たとえば教養や質問者の意見)は不必要だし、しかもそれは忌避される。

ひたすら地味な作業である。そのうえ、この作業をするためには、発表される議論が、きちんと問いから始まっていて、結論までの論証が筋道立てて書かれていなければならない。つまり脇道なく地味に書かれていなければならない。

さて、日本に帰ると、一見論証的に書かれたり発表されたりしたものでも、問い→論証というように必ずしもなっていない。たとえば、問題や論争の文脈解説から始まっていたりすることが多い。

そうすると、そもそもの議論の形がどうなっているのかが気になってしまい、「地味な作業」以前の、細かい確認のための質問をたくさんすることになる。ここで、「この人は何を細かいことばかり言ってるんだろう、哲学をしたいのに」という雰囲気になることもある。

こちらとしては、その細かい確認作業がぜんぶ終わり、問いと議論が明らかにならないと、哲学は始められないと思っているのだ。(これでも最近は、細かい確認を少しあきらめたうえで哲学的な質問もできるようになってきたのだが…)

でもね、ゼミの後輩にあたるTさんなんかは、論文にコメントを付けると、細かい質問にもすべてぴっちり応えてくる。そうすると、議論の明瞭さや説得力だけでなく、哲学的な面白みも格段に増すんだよね。そして読んでいてスリリングなものになる。

しかもTさんは、すでに確認作業があまり必要ない議論を自分で組み立てられるようになってきている。哲学的直観にも秀でたTさんにとって、これは大きな武器だ。頭の中の思考でさえ鋭利で強靭なものになってきているのが、話していてわかる。

誤解のないように付け加えると、誰もが分析哲学のトレーニングを受けるとよいと言っているのではない。明晰かつ論理的に考えたいなら、そのための方法や伝統があるよということだ。その伝統はとくに分析哲学のものではなく、ギリシャにまで遡るものだろう。

 

 

 ボーロ