なぜ人は物語に没頭するのか?
今朝、目が覚めてふと、
「なぜ忍者ハットリくんの獅子丸の好物は、ちくわなのだろう?」
と思った。
さっそくスマホでネット検索してみると、某質問サイトに、同じ疑問が投稿されている。
「獅子丸の好物はなぜ竹輪なんですか?」
さらに疑問がわいてきた。「獅子丸の好物はなぜ竹輪ということに作者はしたのですか?」というふうに、作者について質問しても同じことなのに、あたかも獅子丸が実在するかのように質問している。どうしてだろう?
どういうわけか人間は、物語に没頭するようにできている。「誰々がこうなって、こうなった。」その誰々がたとえ実在しなくても、没頭してしまう。そして没頭すると、その誰々があたかも実在するかのような錯覚が生まれてくる。
▲ ピエール=ナルシス・ゲラン 《モルフェウスとイリス》
このように、物語(ミュトス)には、夢の神モルフェウスが住まう*1。
「物語の形式は、現実がもつ形式を真似して作られる。だから私たちは物語を現実と錯覚してしまうのだ。」
「いや、物語だろうが現実だろうが、私たちはそれを同じ形式でとらえる。だから物語を現実と錯覚してしまうのだ。」
どちらにしたって、なぜ形式にすぎないものが、実在の錯覚を生むのだろう?
物語の形式こそが、実在するものだからだ。そう考えることはできないだろうか。物語の形式は、実在する。実在の世界は、その形式がもっともよく発揮されているからこそ、実在する。私たちがその形式に気づいていても、気づいていなくても。
▼ 井上陽水「フィクション」(「夢の中へ」ではなく)
ボーロ
*1:Cf. 諸星大二郎『夢の木の下で』