夢・幻想・光 ~まどかとヴォランドと僕の対話~
今月末に来るワルプルギスの夜の前に、
明日(4月16日)は復活祭。
復活祭は、キリストの復活祭である前に、
太陽の復活祭だったという話がある。
光がよみがえるのだ。
夢は光でできている。
幻想は闇でできている。
夢をみる子どもと、みない子どもがいる。
夢をみない子どもが大人になるのに、
不健全なことはない。
夢をみる子どもが誤ると、
幻想をまき散らす大人になってしまうのだ。
どうなると誤るのだろうか。
夢が叶わなかったときだろうか。
他人を救おうとして叶わなかったときだろうか。
いや、叶わなかったなら、
あきらめて手離せばよいだけだ。
おとなしく手離せば、誤ることはない。
叶わなかった夢には、
具体的なこの自分や、
具体的な他人が描かれている。
それなのに、
叶わなかった夢を死なせまいとして、
具体的な自分や他人のかわりに、
「自分」一般や、
「他人」一般を救おうとしはじめると、
誤ってしまうのだ。
そのとき夢は、
幻想をまき散らせるものに変わってしまう。
そうかしら。
まどかという魔法使いがささやく。
それは途中であきらめたからよ。
自分一般でも、他人一般でも、
みんなを救おうと夢みて、
本当にみんなを救えたなら、
夢は幻想をまき散らすものになんか
ならないわ。
ふん、嘘をつけ。
ヴォランドという悪魔がささやく。
夢もまた幻想の一種ではないか。
光にみえるものもまた闇なのだ。
闇こそが唯一の実在。
お前も私も幻想。
ここにあるのも、
増殖した文字の幻想にすぎない。
幻想によって救われる人間や、
破滅する人間がいるだけだ。
この区別もまた幻想だがな。
この二人は、
そんなに違うことを言っているのだろうか。
ふと僕は、少なくとも一つ、
闇ではない光があることに気がついた。
それは、この僕が生きていることだ。
この二人はそれを知らないのだろうか?
ボーロ