実存と言語分析
「実存」はどんな性質(本質、~であること)を複製・再現したとしても再現されるはずのないものだが、通俗的にはなぜかそのようなものを表す言葉になっている。
そして、永井均氏のいう〈私〉を通俗的「実存」として理解している人までいる。そんなものは特殊者としての私ですらない。
〈私〉は、性質(本質、~であること)を表す記述の束によっては表せないが、かといって特殊者でもない。少なくともこういう理解に至れるくらいまでは、(古代から現代へ続く意味で)言語分析的に厳密に哲学してほしくなる。
ずぶずぶに通俗的な実存の問題として〈私〉の問題を理解しておきながら、しかも言語分析的に考えることもできないとなると、もう何も言いようがない。
いわば、ぎりぎり目一杯にまで言語分析的に考えておいて、そのうえで出てきたものに繊細な否定を重ねて出てくるのが〈私〉の問題なのだから。
言語をあきらめる否定神学者は、神秘的直観だけでなく非常に繊細な言語分析力を必要とする、という教訓がここにはある。
ボーロ