哲学の中庭

…と、真理の犬たち

探求者にとって〈教養〉とは

「教養とは何か?」

これについては様々な考えがあるだろう。

ただ、こんな暗黙の共通理解があるのではないか。

「教養とは、広く共有された古典的知識のことだ。」

 

だから、「教養」を踏まえたコミュニケーションでは、

共有された知識にまつわる

情報交換や意見交換が行われがちだ。

 

そこでの「面白い話」とは何か?

それは、新奇な情報、一風変わった意見だ。

つまり、「小ネタ」の交換、応酬をめざして、

コミュニケーションが行われることになる。

 

探求者がそこに居合わせたならば、

間違いなく退屈して、早く抜け出したがっている。

知的なコミュニケーションは

「小ネタ」の発表会にすぎないのか。

「教養」はそんなもののためにあるのか。

 

探求者にとっての〈教養〉は、

探求の道筋の周辺をなす古典的知識だ。

 

自分とは異なる探求をする他者と出会い、

対話をすると、

奇しくも共通する古典的知識が

お互いの探求の周辺をなしていることがわかる。

そういうことがある。

それは驚くべきことで、新たな発見だ。

 

そのような僥倖が、

古典的知識を古典的なものにし、

普遍的なものにしている。

 

別々の探求どうしが、

それぞれの周辺である〈教養〉において邂逅する。

そのような対話を知らない人たちが、

はじめから「教養」を共有物として真ん中に据え、

それについての「小ネタ」を出しあっているのだ。

 

 

 ボーロ