哲学の中庭

…と、真理の犬たち

霊的経験の亡霊 ~近代以降の「経験」をめぐる循環~

友人と能を観た。

その友人がブログでこう書いている。

 

ところで、こうした宗教的祭典では当たり前のように霊的直観が、演者や作者のみならず観客にももたらされたことであろう。そうした霊的直観を、対象的に研究することは学問的に現代でも可能である。けれども、そのような霊的直観が駆動力となるような「学問」は、現代では「学問」とはみなされず、しかもそれゆえにこそ、価値が低いものとみなされる。しかし、これはどうしてなのだろうか?霊的直観がないような如何なるものも、誰にでも実行可能で大衆化した、それゆえに、価値の低い、通俗的で凡庸なものでしかないのに。

 

 ▼ 引用元

 

能が終わり、

もと来た参道を戻りながら、

強烈な霊的浄化の感覚が残っていた。

すると、古代ギリシャに通じた友人が、

カタルシス」という言葉を発したのだった。

 

(ところで、彼の言ったように、

現代において「カタルシス」という言葉は、

エンターテイメントもしくは見世物芸術の一形式である。)

 

近代以降の哲学では、

「経験」といえば

通常の感覚器官を通じた経験だ。

広い意味での「直観」も、

通常の思考や判断を含めるにすぎない。

 

霊的経験、霊的直観はどこへ?

 

近代以降の強固な前提は、

「多くの人が共通してもつ感覚経験だけが、

学問に寄与しうる」

という前提だ。

 

だから、ごく少数の人たち、

たとえば霊的感受性のある人たちしか

もたない感覚経験は、

学問に寄与するような経験とはみなされない。

 

これは必然的な前提ではなく、

どういうわけか採用されている前提だ。

 

しかも、この強固な前提は、

循環的に正当化される仕組みになっている。

 

事実、多くの人にとって、

人はみな同じような感覚器官をもっているように感じられる。

つまりそもそも、多くの人にとって、

人体というものは、みな似たり寄ったりのものにみえる。

このことは、

「人はみな同じような感覚器官をもつ」

という経験的な共通了解を形成する。

 

さて、くり返しになるが、

近代以降の「強固な前提」とは、

「多くの人が共通してもつ感覚経験だけが、

学問に寄与しうる」

というものだ。

当然のことながら、

この前提が採用されるうえでの大前提は、

「多くの人が共通してもつ感覚経験がある」

ということだ。

 

先ほどの「共通了解」は、

この「大前提」を正当化する。

すなわち、

「人はみな同じような感覚器官をもつ」

という経験的な共通了解は、

「多くの人が共通してもつ感覚経験がある」

という大前提を正当化する。

 

この正当化によって、

「多くの人が共通してもつ感覚経験だけが、

学問に寄与しうる」

という「強固な前提」を採用することが可能になる。

 

この前提が採用されると、

「多くの人が共通してもつ感覚経験」の寄与によって、

「人はみな同じような感覚器官をもつ」

という経験的な共通了解は、経験的「知識」となる。

 

するとこの「知識」が先ほどの「大前提」を正当化して…

…という循環によって、

「強固な前提」はその強固さを確たるものにしていく。

 

ここでは近代以降の「経験」を取りあげたが、

近代以降の「直観」を取りあげても、

類比的な循環がみつかるだろう。

 

冒頭の引用は、

「霊的直観がないような如何なるものも、誰にでも実行可能で大衆化した、それゆえに、価値の低い、通俗的で凡庸なものでしかないのに」

という文でしめくくられている。

おそらく、そのような「大衆化した」知的正当化システムを、

近現代人はすすんで選んだのだ。

 

 

 ボーロ