洗礼のパラドックス?
オックスフォードの年輩の哲学者たちと
食事をしていたら突然、
一人がかしこまって
僕のほうを向き、
「皆で話し合って、
ショウゴにキリスト教の洗礼を
受けてもらうことにしたよ。」
唖然としたものの、
(英国流?)冗談だった。
けれども、
洗礼のもつ意味を信じていないなら、
洗礼を受けたって何ともないはずでは?
あるいは、
洗礼には宗教的意味だけでなく
社会的意味があり、
それを信じているから
受けないのだろうか。
しかし、
洗礼の社会的意味だけを
信じているのであれば、
「あくまで一つの異文化体験として
洗礼を受ける」
という但し書きを付けることも
可能なのでは?
あれ以来、 時々そんなことを
あれこれ考える羽目になった。
洗礼のパラドックス?
ボーロ