哲学の中庭

…と、真理の犬たち

「物語」について考えたつづき ~絵画・演劇・哲学へ~

コアトークカフェの、

「物語」をテーマにした哲学対話に参加してきた。

 

 

哲学対話なので、もやもやが気持ちいいのだが、

今回はすっきりと整理できたところも多かった。

やはり素晴らしい対話の場所だ。

 

さて、「物語」とは何か?

 

「物語」は、「事実の羅列」とは違い、

全体を一本につなげる何かを必要とする。

 

かといって、

事の全貌を網羅的に記述すると、

それはただの「説明」になってしまう。

 

網羅的な「説明」から、何かをそぎ落とさなければ、

「物語」はあらわれない。

 

参加者の一人が、こんな例で話をしていた。

目の前のテーブルの上にあるものをこと細かに言うと、

それは説明になってしまう。

でも、緑色をしたガラス瓶、とだけ言ってみると、

少し物語らしくなる。

 

なるほど、たしかに。

不思議だ。

絵画について考えると、手がかりが得られるだろうか。

  

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 ▲ ジョット《哀悼》

 

小林康夫先生は『絵画の冒険』のなかで、

十四世紀初頭のジョットの《哀悼》について、

その表象の中心が、

エスの顔とマリアの顔のあいだの

「わずかな距たり」にあると書いている。

そこに絵の意味が「動的に収斂していく」と。*1

 

そして、

中世の「ビザンティン様式であれば考えられないこと」として、

最も手前側でこちらに背を向けている、

二人の人物の存在を指摘している。*2

 

「イエスとマリアの顔のドラマ」は、

この二人にはさまれた空間で起きている。

この二人は、絵を見る人々の「代表者」として、

絵の中の空間と、絵を見る人々のいる空間とを、

「連続」させている。*3

 

意味の中心へと向かう、動的な指し示し。

そして、意味をもつ空間と観賞者のいる空間との連続性。

 

これらは、「物語的」と言うことはまだできないとしても、

「演劇」において典型的にみられることだ。

つまり、ストーリーでないとしても、「ドラマ」。

 

十年ほど前、初めてヴァティカン美術館を訪れたとき、

次々にならぶ古代ギリシャ - ローマの彫刻を観ながら、

「偉大さ」ということについて考えていた。

  

 ▼ ヘラクレス

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いま思えば、それは演劇的な偉大さだった。

人間を超えているとか、崇高だとか、

単純にそういうことではない、演劇的な偉大さ。

 

まるで彫刻自身がいまにも大いなる神話を演じはじめ、

そこから物語が始まりそうな気配に満ちている。

 

「この、緑色をした、ガラス瓶」

これが物語的だとすれば、

それは詩ではなく演劇なのだ。

 

しかし、「演劇」とは何だろうか。

「演劇的」とは何だろうか。

 

ここでいったん思考を閉じる前に、

哲学へと話をつなげてみる。

 

ソクラテスを主人公とする

プラトンの対話篇は演劇的だ。

そして、そうでなければ相応しくないような

偉大なものをめぐり、

あるいは偉大なものへ捧げて、

対話がくり広げられる。

 

つまりたとえば、

「〈正義〉や〈節制〉などと同じ仕方で〈善〉についても説明してください」

ではなく、

こうでなければ論じられないことがあるのだ。

 

「どうかゼウスに誓って、ソクラテス」と、ここでグラウコンが言った。「まるでもう終わりまで来てしまったように引き下がらないでください。私たちとしては、あなたが〈正義〉や〈節制〉その他について話された、あれと同じ仕方で〈善〉についても説明してくださるなら、それで満足するでしょうから」*4

 

 

 ボーロ

*1:東京大学出版会、2016年、17頁

*2:同上

*3:同上

*4:プラトン『国家(下)』藤沢令夫訳、岩波文庫、1979年、18頁