哲学の中庭

…と、真理の犬たち

ダイアレクティック(あるいは対話)をめぐるパラドックス

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イングランド

出会った先生方の多くが、

石黒ひで先生のことを

非常に高く評価していたのを

よく憶えている。

 

その石黒先生の指導について、

河野先生からお話を聞くことができた。

 

ポジションをとりなさい。

そのポジションにコミットして、

それを可能な限り擁護しなさい。

 

対立しあう複数の立場を明確に立てて、

そのうちの一つに強くコミットする。

僕の理解では、

これこそが西洋的ダイアレクティックだ。

 

対立しあう複数の立場があるとき、

それらを簡単に調停しようとしない。

まとめようとしない。

つまり、

俯瞰する上からの観点を拒み、

あくまで下にある観点のうちの一つをとる。

 

そうして重心を低くとりながら、

上への構築をめざす。

これが、西洋の伝統構築に

おそるべき強度を与える。

 

さて、永井先生から、

田島先生の哲学についての

解説を聞く機会もあった。

 

いま何が問題であるのか、

いま何が対立しあっているのかは、

未来の時点で問題解決が訪れたときに、

初めて明らかになる。

いまわかるのは、

何か問題があるということだけ。

 

(ところで、「対話」にひきつけて考えると、

僕の解釈はこうなる。

いま何の問題について対話しているのか、

いま対話者たちが

それぞれどういう観点で話しているのかは、

いつか問題解決が訪れたときに

はじめて明らかになる。

いまわかるのは、

何か対話すべき問題あるということだけ。

この考え方は僕の実感にとても合う。

「この人と話したいことがある」

「この対話に参加していたい」

ということがわかるだけで、

何について話せばよいのか、わからないことが多い。)

 

この考え方をとれば、

いま正しくポジションを一つとること、

いま正しく重心を低くとることは、

そもそもできない。

そのようなポジション取りが

きちんとできるようになるのは、

いつか問題解決が訪れたときだからだ。

 

では、重心を低くして一つの観点をとるべきなのか、

それとも、

正しくそんなことができるというのは誤りなのか。

 

…という問題、ダイアレクティックについては、どうだろう?

どちらかにコミットすべきだろうか。

それとも、

正しくそのようなことはできないだろうか。

 

…という問題、ダイアレクティックについては、どうだろう?

どちらかにコミットすべきだろうか。

それとも、

正しくそのようなことはできないだろうか。

 

…という問題、ダイアレクティックについては、どうだろう?

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 ボーロ