哲学の中庭

…と、真理の犬たち

問いが欲しがるものと、哲学者が欲しがるもの

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コーハンさんのワークショップに

参加して学んだ最大のことは、

問いが欲しがっているのは答えではない

ということだった。

 

コーハンさんが言ったように、

問いを見ると、答えたいという衝動がわく。

その衝動は、いわば錯覚だ。

問いは答えを欲しがってはいない。

 

では、問いは何を欲しがっているのか。

それは〈思考〉だ。

問いは、〈思考〉を欲する。

 

上の写真のように、紙に自分の問いを一つ書く。

その問いの下に、誰かに問いを二つ書いてもらう。

それらの問いの下に、自分で問いを一つ書く。

 

こうして、問いに問いを重ねていく。

問いと問いのあいだには、思考がある。

最初に書いた問いよりも、

最後に書いた問いのほうが、

より思考を欲する問いになっていることに気づく。

答えのための糸口ではなく、

思考のための糸口が、

そこここに開いた問いになっている。

 

さて、一夜明けた今の僕の問い。

問いと思考、新たな問いと思考、新たに新たな問いと思考…

その果てには何がある?

 

友人犬のマフィンが昨夜バーで言ったのは、

それは真理に向かっていなければならない

ということだった。

 

さすがマフィンだ。

たしかにその視点は、この二日間の会に

欠けていたものだったかもしれない。

 

問いは思考を欲しがるが、

思考する私たちは、知を欲しがるのだから。

 

それとは別にマフィンが指摘したのは、

この二日間での質疑の時間の大半が、

悩み相談の時間になっていたということだった。

 

悩みや困りごとは、答えを欲しがる。

その限りで、それらは問いではない。

本当に問いの大切さを実感したなら、

質疑の時間は、

問いと思考のための時間になったはずなのだ。

 

ただ僕は、サイレント・マジョリティに勇気づけられた。

サイレンスは思考のしるしだ。

僕が自分の発表で提起したかった問いは、こうだ。

たとえば臨床哲学者が病院に行き、病気の人と対話する。

病気の人にとっての本当の問題は何か。

対話をつうじた探求によって、

問題を考えるための概念を共同でつくっていく。

そこで病気の人は、こう尋ねてもいいはずだ。

「ところで、哲学者がどうしてこんなことをやっているんですか?」

対話相手を探す哲学者は、独自の問題を抱えているはずなのだ。

一人で研究して思索していることに問題を感じて、

やがて問題を感じすぎて、いてもたってもいられなくなり、

外へ飛び出したはずなのだ。

 

まさに僕自身が、そんな問題を抱えている。

しかも、その問題が何なのか、自分でもはっきりとわかっていない。

子どもたちや色んな大人に会いにいくのは、

その問題を何とかしたいと思っているからではないだろうか。

 

それなら、子どもたちや大人に、

「なんでこんなことやってるんですか?」

と本当は聞いてもらいたいはずだし、

聞いてもらって一緒に考えることができたら、

一緒に言葉をつくっていくことができたら、

どんなに素晴らしい対話になることだろうと思う。

 

もっと言えば、

「なんでこんなことやってるんですか?」

と思わず聞きたくなるような、

それくらいあやしい人としてそこにいないなら、

僕は何かを隠しているんじゃないか、

そういう疑いにつきまとわれて然るべきだと思う。

 

そんな対話は可能だろうか。

どうやったら可能だろうか。

 

サイレントだった人たちの何人かに、

この問いを受けとってもらえていたことを、

あとになって声をかけてもらい、

知ることができた。

 

いつもながら、勇気は裏切らない。

勇気を出して問いを発すると、

言葉を贈ってくれる人が必ずいる。

 

 

 

ボーロ