哲学の中庭

…と、真理の犬たち

ポジティブな1 ~マジカルな哲学対話~

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ハワイの先生方は、「子どもの哲学」をやっていると訪れる感動的な体験を、"p4c magic" という言葉で表現していた。

 

哲学カフェでの対話は「子どもの哲学」とは少し違うかもしれないが、それでもマジカルな瞬間は訪れる。

 

東邦大学の哲学カフェは、今年度から木曜日から火曜日へ引っ越して、哲学仲間の成田さんにも来てもらえるようになった。

そんなリニューアル後、じつは一人も学生が来ない日なんかもあったが、このところ色んな学科の人が寄ってくれるようになり、マジカルなことが起きるようになってきた。

 

本当に、場所の醸成というのは、まずは誰もいないところに、色んな人が寄ってくるようになるところから始まる。

 

昨日は、物理学科、看護学科、化学科の学生たちが寄ってくれた。

 

看護学科からの2人は、哲学カフェの場所で急遽特別に、ポジティブ思考のプレゼンテーションを披露してくれた。

いまの僕にぴったりで、すごく励まされて元気が出た。

妖精さんたちかと思った。

 

物理学科の学生たちは、「1って何?」について鮮烈な問題提起してくれて、びっくりするほどエキサイティングな議論をくり広げてくれた。

物理法則は、なぜか式で表される。

たとえば、y=ax という式があるとする。

ここには具体的な数が含まれていないようで、じつは「1」が含まれている。

つまり、1y=1ax ということ。

「1」はこのように、数式や物理法則にどこまでもつきまとう。

この「1」って何?

 

「×1」、つまり「1つある」ということ?

あるいは、「÷1」、つまり「2つ以上に割らずに1つ」ということ?

あるいは、「×1÷1」ということ?

 

物理学科の一年生の男子学生は、

「1とは〈存在する〉という意味だ」

という、〈1の存在説〉を考えた。

とにかく何でもいいから、何かが存在したら、それを1つと見なせる。

だから、たとえば a につきまとう 1a の 1 は、「a が1つ存在する」ということ。 

a が存在しなければ、1aでなく0a になり、ゼロ。a は消えてなくなる。

 

それに対して、同じ物理学科の一年生の女子学生は、

「1とは〈それを基準とする〉という意味だ」

という、〈1の基準説〉を考えた。

とにかく何でもいいから、何かを1つと見なして、それを基準にすることができる。

そこにあるお菓子を1つと見なせば、それを基準にして、お菓子2つ、お菓子3つ…が言えるようになる。

 

「でも、そのお菓子が存在しなくなったらゼロでしょ?お菓子が存在するから、それを1つと呼んで、基準として使えるんでしょ?」

〈1の存在説〉を考える男子学生は、〈1の基準説〉をそう批判する。

 

それに対して、〈1の基準説〉を考える女子学生はこう言う。

「存在するからって、なんでそれが1なの?それを人間が1って決めて基準にするからじゃん。」

1は、あくまで人間が決めているものだというのだ。

 

座標、時間、身のまわり…。舞台を次々に移して応酬はつづく。

 

やがて、〈1の基準説〉を考える女子学生は、どんな基準を1と決めても、

「それが存在するからそうできるんでしょ。存在しなかったらただのゼロじゃん」

と返されてしまう。そんなパターンが見えてきた。

 

そして女子学生は、半ば呆れてつぶやくように、こう言ったのだった。

 

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ボーロ