哲学の中庭

…と、真理の犬たち

本に呼ばれるという試練

本屋に呼ばれるときは、

本が呼んでいるのかもしれない。

 

八重洲ブックセンターには、

哲学コーナーのあるフロアより

上の階に行こうとすると、

こんな試練まであった。


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 *1

 

いまはエレベーターがあるらしい。

この看板、いまはいずこ…

 
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 ボーロ

知への愛ではない、愛とは知りたいということ 2

前にも書いたように、

フィロソフォスという人間は、

知を愛するというよりも、

愛するからこそ知りたいのだ。

 

「何を探求するのかを

すでに知っているのでなければ

探求はできないではないか。」

 

この「探求のパラドックス」への

応答はこうなる。

 

私は、愛のはたらきがあることを、

内側から知っている。

そのはたらきが

どこへ向かうのかをこそ、

探求したいのだ。

 

 

 ボーロ

根源的遭遇のための対話

昨日の哲学対話では、

ああ今日はこの対話があってよかったと

確信をもてる瞬間が現れた。

 

真実の瞬間だ。

 

それは本当に一瞬のことで、

一人の方が、

魂の底から言葉を発したのだ。

 

その声、意味、表情は、

謎として記憶に刻まれる。

 

僕が対話の場を開くとしたら、

開きたいのは、

そのようなことが起こりうる場所。

真実との根源的な遭遇が起こりうる場所。

 

そのような遭遇の瞬間は、

目立たないことが多い。

それが起こりうる場所のための配慮も、

目立たないものだ。

 

それでも、真実の瞬間は、

それを待つ人のもとに訪れる。

 

 

(だから、僕にとって「ファシリテート」することは待つこと。「ファシリテーター」としての発言は「もう少し待ちましょう」のみというのが理想。)

 

 

 ボーロ

〈存在〉するための〈借り〉

宇宙の始まりと

進展と終わりについての、

面白い説を聞いた。

 

宇宙は、

エネルギーをどこからか

借りてきたから

始まることができた。

宇宙が膨張しているいまは、

それを返している最中なのだ、と。

 

どういうわけか存在している私に、

この説があてはまるとしたら、

どうだろうか?

 

私は、

借りをしたから

生まれてくることができて、

何かを返すために

生きているのかもしれない。

 

だとしたら、何を?

 

ゲームに例えるとしたら、

こうだろうか。

 

私が人生というゲームに参加するために、

前借りをしたのだとしたら、

その目的は、

前借りを返すことにあるのかもしれない。

 

だとしたら、誰に?

 

 

 ボーロ

しっぽとアース

最近はあまり見なくなった気もするが、

車のうしろから垂れ下がっているヒモ、

あれは電気を地面に逃がすためのものだ

という話があった。

 

電化製品だとアースという線があって、

これも電気を地面に逃がすための線。

 

しっぽは脊椎動物にとって

このアースみたいなものだという

仮説を昔から信じている。

 

しっぽをよく動かす犬は、

豊かな感情とともに生じる

大きなエネルギーを

体の中にためこまないよう、

ああやって外に逃がしている。

 

猫はストレスを感じるとしっぽを動かす。

よくないエネルギーを外に逃がしているのだ。

 

残念ながら人間にはしっぽがない。

だから、余分なエネルギーがたまってくると、

坐骨や腰骨に神経痛を起こしてしまう。

 

しっぽというアースさえあればよいのに、

ないものだから、

人間は余分なエネルギーを逃がすために、

脊椎動物としては余分な

エクササイズや活動をする。

 

さて、なぜ人間はしっぽをなくしたのか?

まさか余分なエクササイズや活動のためではあるまいな。

…と疑いながらも、

そうかもしれないと少し思っている。

 

 

 ボーロ

どうして哲学対話をやっているのか

どうして、

自分の哲学の外へ出なければいけないのか。

どうして、

自分の哲学を理解してくれないであろう人と、

対話しなければいけないのか。

 

そんな根本的な問いを投げかけられた。

今の僕には答えることができなかった。

 

たしかに、自分だけの問いがあり、

哲学とは、ひたすらその問いにこだわることだ。

ほかの問いなどに時間を割く、

暇も関心もない。

潔癖なまでに純粋な態度。

 

僕個人の経験では、

対話を重ねてきて得られたものは多い。

そのなかには、

自分の問いを考えるうえで役立つものさえある。

でも、自分の問いのためにと思って対話をしてきたわけではないし、

これから対話を続けていく目的がそこにあるわけでもない。

 

対話は僕にとって、世界に触れるということ。

目的は自分でもわからない。

世界に触れたいという衝動が、

自分の問いの外へ、僕を連れ出そうとする。

 

その衝動は、

自分の問いと、

どこかでつながっているのだろうか。

そう自問すると、どういうわけか、

つながっている

という確信のようなものが、

心を満たす。

 

 

 ボーロ

世界の穴 ~哲学者たち水族館へ行く~

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哲学者たちと水族館へ。

そのなかには家族連れの哲学者もいた。

小さな息子さんの輝く魂は

好奇心に満ちて、

得体の知れない生き物たちに

眠る間もなく見入っていた。

 

大人の僕でさえ、

見たことのない生き物がまだまだいることを知り、

地球の広さを思うと途方に暮れそうだった。

 

かろうじて見たことがあるかもしれない

フグのようなのが漂いながら、

口をあけていた。

 

「見て、口あけてる、かわいい」

と女性の哲学者が言うと、

もう一人の女性哲学者が身震いしておびえた。

どうして怖がるのかを聞くと、

「世界の穴みたい」

 

男の子はアザラシがとくに気に入ったようで、

水槽のガラスから離れようとしない。

泳ぐアザラシも男の子に興味をもったようで、

男の子を見ながらゆっくり近づいてきては、

水中をぐるりと一周して、

また男の子を見ながらゆっくり近づいてくる、

ということをくり返していた。

 

一緒に遊びたいのかなと思っていたが、

男の子を正面から見つめるその両目が、

慈愛に満ちあふれていることに気づき、

僕は頭がくらくらしてしまった。

 

世界の穴はそんなところにもあった。

 

 

 ボーロ