哲学の中庭

…と、真理の犬たち

哲学の厳密さと直観

2つの三角形が似て見える、

同じに見える、

と多くの人が言うなかで、

論証によってそれらが合同か否かを

考えようとするのが、

幾何学の厳密さだ。

 

哲学の厳密さは、

もともとこれに相当する。

 

(似て見える、同じに見える、

という言説の、

なんと蔓延しやすいことよ。)

 

直観は、

論理の(論理でなければ何らかの外的な)

厳しさによって、

つねに精査されなければならない。

さもないと、

直観はあっという間に弛緩してしまう。

 

あの美大生の話ともつながるだろう。

センスばかり頼りにして

理論を勉強しない人は、

おとろえていくばかり。

 

 

 ボーロ

〈可能〉と〈存在〉の対話

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ニコラウス・クザーヌスにとって、

可能はすべてに先立つ。

だから、可能は、存在にすら先立つ。

 

「そんなはずはない。

存在こそがあらゆるものに先立つのだ。

あらゆるものは、

何らかのものである限り、

何らかのものとして、

すでに存在してしまっている。

存在こそが、

あらゆるものをあらかじめ成立させ、

可能にしているのだ。」

 

すなわち、

存在があらゆるものを可能にするのであって、

可能があらゆるものを存在させるのではない。

そのように反論する哲学者がいるだろう。

この哲学者は、

次のように言うかもしれない。

 

「あらゆるものに先立つ〈存在〉。

なぜそれが初めに存在したのか。

いや、〈存在〉が初めに存在したなどと

言うことはできない。

〈存在〉は、存在したり存在しなかったりするものではない。

〈存在〉は、それ以上さかのぼれない原初だ。」

 

さて、クザーヌスはこう言うだろう。

そのときの〈存在〉は、存在可能ということだ。

 

あらゆるものは、

何らかのものである限り、存在可能だ。

可能なあらゆるものがあらかじめ存在するのではない。

あらゆるものがあらかじめ存在可能なのである。

 

そして、あらゆるものは存在しないこともできる。

つまり、あらゆるものは非存在可能でもある。

可能が、存在・非存在に先立っているのだ。

 

ゆえに、

可能なあらゆるものがあらかじめ存在したうえで、

それらが現実化したりしなかったりするのではない。

存在が可能・現実に先立つとするのは誤りである。

可能が、存在・非存在に先立つのである。

 

「その可能とやらも、やはり、

まずはあらかじめ存在しなければならないではないか。」

相手の哲学者がそう言えば、

クザーヌスはこう言うだろう。

「存在するためには、

まずはあらかじめ存在可能であったのでなければならない。」

 

この対話は、

世界のどこを源泉とし、

どこへ流れゆくのだろうか。

 

 

 ボーロ

知への愛ではない、愛とは知りたいということ

哲学対話をすると、

わからないことが余計に増える。

 

けれども、いろんな問いが、

みんな深いところでつながっている、

ということはわかる。

そんなことをつくづく感じた

哲学カフェの日だった。

 

「恋愛感情は必要か?」

「人としてなくしてはいけないものは何か?」

「生きている価値とは?」

リテラシーとは?」

「気づきとは何か?」

「夫婦とは何か?」

「哲学とは何か?」

 ・

 ・

 ・

 

めぐろ哲学カフェでは、

あえて問いをしぼらずに、

1つの問いから対話を始めながらも、

問いどうしのつながりを

意識しながら対話を進めていく

ということをするときがある。

 

恋愛では、相手のことを知りたい。

哲学は、知ることへの愛。

リテラシーの根底にあるのは、

知りたいということ。

 

知りたい。

それが阻害されるから、

満たされないから、

おかしなことになる。

 

ということは、

それは必要なのだろうか?

なくしてはならないものなのだろうか?

 

知りたい。

どこまで知りたい?

 

 

 ボーロ

 

まさにここにあるもの

「哲学では、

一般的なものについてだけでなく、

個物について考えることができるんです。」

そう若者は言った。

 

何をわかったようなことを。

目の前の人間ですら見えてないくせに。

 

僕は言った。

「あなたは、ここにある筆箱や紙について

考えていますか?

これらこそが個物、特殊者です。

あなたは個物一般、普遍的な特殊者について

考えているにすぎません。」

 

若者はよく理解できないようだった。

すると、近くにいた女性が、

若者に向かって説明した。

 

「まさにここにあるものについて

考えなければ、

個物、特殊者について考えたことには

ならないということです。

まさにここにあるもの。」

 

まさにここにあるもの。

それは筆箱や紙のような

物ではないのかもしれない、と思った。

 

明け方の夢はそんな夢だった。

 

 

 ボーロ

翠玉白菜の中身はどうなっているのか?

台北故宮博物院にある

白菜のことを考えさせられていた。

翠玉白菜」と呼ばれているらしい。

 

 

たとえば、白菜の絵があるとする。

白菜は土の表面にできるものなので、

白菜が木の幹のうえに鎮座しているような絵を描いたら、

これは白菜の絵としては不正確だということなる。

 

(イメージ)

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絵について「正確」「不正確」を言えるのは、なぜか。

それは、絵が、絵のそとの世界を指しているからだ。

絵のそとの世界と照らし合わせて、

絵は正確だったり不正確だったりする。

 

さて、ここに正確な白菜の絵があるとする。

その絵を指して、

「この白菜は内側にも葉がついている」

と言うと、それは正しいことになる。

 

絵には、白菜の内側は描かれていない。

にもかかわらず、

「この白菜は内側にも葉がついている」

と言うと正しいことになるのは、なぜだろうか。

 

それは、やはり絵がそとの世界を指しているからだ。

そして、そとの世界の白菜は、

内側にも葉がついている。

絵がそとの世界を指していて、

その絵を指して人が話している、

というふうになっている。

 

 さてさて、問題の「翠玉白菜」である。

(なんでも鑑定団みたい。)

翠玉白菜について、

白菜の彫刻として正確かどうかを、

問うことができる。

それは、翠玉白菜が、

(彫刻の)そとの世界の白菜を指しているからだ。

 

そこで、故宮博物院翠玉白菜を指して、

「この白菜は内側にも葉がついている」

と言うとする。

 

周囲の人は変に思うかもしれないが、

これは正しい発言のはずだ。

白菜の絵がそとの世界の白菜を指すように、

翠玉白菜もそとの世界の白菜を指す。

それなら、白菜の絵を指して言って正しいことを、

翠玉白菜を指して言って正しくないはずがない。

 

ここで僕は考えてしまうのだ。

彫刻には、絵とちがって、

本当に内側がある。

翠玉白菜の内側はどうなっているのだろう?

 

翠玉白菜が正確な彫刻なら、

もしかすると、

翠玉白菜の内側には翡翠でできた葉があって、

そとの世界の白菜の内側にある葉を

(正確に)指しているのかもしれない。

 

でも、どうやってそれを確かめればよいのだろう?

どうやって翠玉白菜の外側の葉をはがせばよいのだろう?

 

こんなことを言ったとされる天才にならできるだろうか。

「すべての石の塊の中には彫刻がある。

彫刻家のつとめはそれを取りだすことだ。」

 

 

 ボーロ

「足」という2つの肉塊あるいは出入口

足首より下、

つまり足の甲・足の裏・足の指には、

筋肉や腱が細かくはりめぐらされている。

 

33の関節があり、

100以上もの筋肉・腱・靱帯があるのだそうだ。

 

 ▼ 参照

  The forgotten muscles in your feet

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(骨の数はなんと体中の約4分の1を占めるのだそう。)*1

 

ところが、足首から下というのは、

靴の中に閉じ込められていることが多い。

 

靴を履いていないときでも、

意識されることは少なく、

石のように放っておかれている。

 

これが非常によくない。

とくにストレスがあるときには、

足の中の筋肉でさえも緊張している。

たとえ意識されなくても、

足の中の筋肉は、次第にこわばってくる。

 

靴を履かないで座っているとき、

寝ているときに、

これらの筋肉を動かしてみる。

筋肉がたくさんあるので、

さまざまに動かせることに気づく。

 

足の指を曲げたり反らしたり、

つま先を開いて、

そのまま土踏まずを反ったり、

外側のほうをいろんな方向に曲げたり。

曲げるときや反るときには、

できるだけ力を入れるのがよい。

 

どこかの筋肉がつることもあるが、

これは非常によい。

我慢していると、痛みがやわらぎながら、

こわばりが解けていくのがわかる。

足が温かくなってくる。

 

そうこうしていると、

背中や肩の筋肉もほぐれていくのがわかる。

ときどき思いがけない場所に心地よい痙攣が起こる。

足のこわばりとゆるみは、

全身とつながっているようだ。

 

こうしたことを、

こんなふうに表現する人もいるだろう。

足からはエネルギーが出入りする。

そこがふさがっていると、

全身のエネルギーが滞ってしまう。

 

少なくとも気持ちはいいので、

よかったら試してみてください。

 

 

 ボーロ

 

*1:

何が循環を引き起こすのか? ~現象論的唯一性と形而上学的唯一性~

空間には、私を中心とした向きがある。

上下、左右、前後、のように。

 

さて、空間の向きの「中心」は唯一だ。

そう観念論や現象学は説明する。

だとすると、他人を中心とした向きは、

私を中心とした向きの、

何らかの仕方での複数化(分有)だということになる。

 

 この考え方をとれば、

「たくさんの身体があるなかで、

どれが私の身体なのかがわかるのはなぜか?」

という問いに対する答えは明快だ。

答えは、

「空間の中心は唯一で、

その中心にあるのが私の身体だからだ」

というようなものになる。

 

これは観念論または現象学なので、

各人(各主体・各主観)が、

そのようにして「私の身体」を

見つけていることになる。

 

では、こう問われたらどうだろうか。

各人にとっての中心があり 、

各人が(同じようにして)そこにある身体を

「私の身体」として見つけているならば、

そのうちのどれが私の身体なのかが

わかるのはなぜか?

 

観念論や現象学は、

先ほどと同じように答える。

「空間の中心は唯一で、

その中心にあるのが私の身体だからだ。」

 

この答えはやはり各人にあてはまるため、

問いと答えのあいだで

観念論的循環もしくは現象学的循環と

呼ぶべきようなものが起こる。

 

この循環を起こしているものは何なのか?

観念論や現象学は、

この問いに答えることができない。

せいぜい「唯一の中心」をふたたび持ち出して、

同じ循環を続けてしまうだけだ。

 

この循環を起こさないように、

独我論をとることもできる。

「各人」など存在せず、私だけが存在する。

だから「各人にとっての唯一の中心」

なども存在しない。

存在するのは「私にとっての唯一の中心」だけだ、

というように。

 

しかし、独我論をとらずに、

ここで循環を引き起こしているのが

何であるかを言うことはできない、

という方向で考える哲学者がいる。

永井均氏、入不二基義氏)

つまり、ここで循環を引き起こしているのは、

事象内容的な「本質」ではない、

〈実存〉もしくは〈現実性〉だという考え方だ。

 

この考え方は、

空間の向きによる身体の特定は

各人にとって起きている事象にすぎない、

という水準で問題を立てる。

だから、身体の特定は、

「どれが私なのかがわかるのはなぜか?」

のような問題とは無関係となる。

 

私はこの考え方の基本的な部分を受けいれ、

循環を引き起こしているのは、

私や世界を超越した何かだと考えようと試みている。

 

空間の向きの源泉が、超越的な何かだとする。

私の身体も他人の身体も、それどころか世界全体も、

そのような向きの中にある。 

 

ただ、私の身体だけが、超越的な源泉と特別な関係をもつ。

だからこそ、それが端的に私の身体であり、

それが私の身体だということが私に顕わになっている。

 

そのことによって循環が引き起こされるのだが、

内在的には、それは隠れてしまうというわけだ。

 

詳説はいずれきちんと発表したい。

 

 

 ボーロ