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哲学の中庭

…と、真理の犬たち

無限に強い光が無限に弱まると

ボーロ

「無限に強い光は、

その無限の強さのため、

無限に遠くまで届きます。」

偉い人たちの前に立って、

僕は話をしている。

 

「無限に遠くとは、

変なことを言うな。」

しかめ顔と嘲笑。

 

「この光は、

遠くへ行くごとに、

弱まっていきます。

ですから、

無限に遠くまで届くときには、

無限に弱まっています。

さて、無限に強い光が、無限に弱まると、

どうなるでしょうか。

…じつは、それが私たちなのです。」

 

勇気をふりしぼるというよりも、

やけっぱちな気持ちだった。

 

そんな夢からさめ、ホッとしたが、

正夢だったらいいなと思う。

 

 

 ボーロ

哲学の中庭

ボーロ

哲学の中庭は、

ぼろぼろになった真理の犬たちが

休む中庭。

 

いつか魂の救済を

きちんとあきらめたら、

せめてそんな中庭をつくりたい。

 

 

 ボーロ

実存と言語分析

ボーロ

「実存」はどんな性質(本質、~であること)を複製・再現したとしても再現されるはずのないものだが、通俗的にはなぜかそのようなものを表す言葉になっている。

そして、永井均氏のいう〈私〉を通俗的「実存」として理解している人までいる。そんなものは特殊者としての私ですらない。

〈私〉は、性質(本質、~であること)を表す記述の束によっては表せないが、かといって特殊者でもない。少なくともこういう理解に至れるくらいまでは、(古代から現代へ続く意味で)言語分析的に厳密に哲学してほしくなる。

ずぶずぶに通俗的な実存の問題として〈私〉の問題を理解しておきながら、しかも言語分析的に考えることもできないとなると、もう何も言いようがない。

いわば、ぎりぎり目一杯にまで言語分析的に考えておいて、そのうえで出てきたものに繊細な否定を重ねて出てくるのが〈私〉の問題なのだから。

言語をあきらめる否定神学者は、神秘的直観だけでなく非常に繊細な言語分析力を必要とする、という教訓がここにはある。

 

 

 ボーロ

哲学探求の前進とは?

ボーロ

毎日、哲学ノートを書いている。

ほんの少しずつだが、探求は確実に進んでいる。

新たな問いが目の前に開けたときに、

前進の快感を得ることができる。

 

学生たちと、

「私とは何か?」という問いについて、

パスカルとともに考えている。

学生たちの言うことは、驚くほど鋭い。

 

パスカルと学生たちの共同探求によって、

「私とは何か?」という問いから、

「宇宙って何?」

「想像力って自分と他人で同じ?」

「『AはAだ』は正しいけどなんか変では?」

などの問いが出てくる。

 

鋭い考えによって、

最初の問いから、

いくつもの問いが出てくるのだ。

 

学生たちの中には、

手ごたえを感じられない人もいるかもしれない。

「先生は嬉しそうにほめてくれるけど、

問いが増えてわからなくなっていくだけじゃんか」と。

 

次回の授業でする予定の話だが、

最初の問いから、

そこに含まれていた諸々の問いが明らかになることこそが、

探求の前進なのだ。

 

しかし、どうしてそうなのだろう?

まさか、やっぱりそうなのだろうか。

世界は、

物や事実でできているのではなくて、

本当に謎でできている。

だから世界を切ると

謎がこぼれ落ちるのではないだろうか。

 

 

 ボーロ

夢・幻想・光 ~まどかとヴォランドと僕の対話~

ボーロ

今月末に来るワルプルギスの夜の前に、

明日(4月16日)は復活祭。

復活祭は、キリストの復活祭である前に、

太陽の復活祭だったという話がある。

光がよみがえるのだ。

 

夢は光でできている。

幻想は闇でできている。

 

夢をみる子どもと、みない子どもがいる。

夢をみない子どもが大人になるのに、

不健全なことはない。

夢をみる子どもが誤ると、

幻想をまき散らす大人になってしまうのだ。

 

どうなると誤るのだろうか。

夢が叶わなかったときだろうか。

他人を救おうとして叶わなかったときだろうか。

いや、叶わなかったなら、

あきらめて手離せばよいだけだ。

おとなしく手離せば、誤ることはない。

 

叶わなかった夢には、

具体的なこの自分や、

具体的な他人が描かれている。

それなのに、

叶わなかった夢を死なせまいとして、

具体的な自分や他人のかわりに、

「自分」一般や、

「他人」一般を救おうとしはじめると、

誤ってしまうのだ。

 

そのとき夢は、

幻想をまき散らせるものに変わってしまう。

 

そうかしら。

まどかという魔法使いがささやく。

それは途中であきらめたからよ。

自分一般でも、他人一般でも、

みんなを救おうと夢みて、

本当にみんなを救えたなら、

夢は幻想をまき散らすものになんか

ならないわ。

 

ふん、嘘をつけ。

ヴォランドという悪魔がささやく。

夢もまた幻想の一種ではないか。

光にみえるものもまた闇なのだ。

闇こそが唯一の実在。

お前も私も幻想。

ここにあるのも、

増殖した文字の幻想にすぎない。

幻想によって救われる人間や、

破滅する人間がいるだけだ。

この区別もまた幻想だがな。

 

この二人は、

そんなに違うことを言っているのだろうか。

 

ふと僕は、少なくとも一つ、

闇ではない光があることに気がついた。

それは、この僕が生きていることだ。

この二人はそれを知らないのだろうか?

 

 

 ボーロ

魂の錬金術と魔法少女

ボーロ

今月の終わりにワルプルギスの夜が来る。

 

昔、イングランドの魔女たちとすごした

ワルプルギスの夜は忘れがたい。

とくに何がって、

鳥のさえずるたんなる朝の輝きが。

 

遅ればせながら、

魔法少女まどか☆マギカ」を観て

身につまされている。

 

僕は人と真にかかわるとき、

自分の精神のためか、

または他人の魂のためだと思ってそうする。

 

後者は大それているのかもしれない。

かといって、そのかわりに

いわゆる「教育的」な行いをするというのも

よくわからない。

 

他人を見て「それはあんまりだ」と、

魂を穢すものを祓いに行っておきながら、

自らが穢れを発するものにならないように

気をつけないといけない。

 

それならば、

まともに「教育的」な行いができる人間を

目指せばいいじゃないか。

たぶん僕にはそれができないのだ。

 

だから少なくとも、たとえば、

「大人になっちゃダメ」などと言いながら、

そればかりを言う大人を増やしたがっている

大人にはならないようにしないといけない。

(夢の成れの果てとしての幻想増殖。)*1

 

大人になることそれ自体は、

魂が穢れることではない。

でも僕のような人間が大人になると、

穢れのもとになりかねないのかもしれない。

(概念になりそこなった夢の

成れの果てとしての幻想増殖。)

 

それはどのような人間か。

それは、他人の魂を変えるという奇跡を

起こそうと思っている人間だ。

他人の生を変えるという夢を

叶えようとする人間。

 

それなら、魂の錬金術は自分のためだけに使おう。

そう考えてみても、

僕には簡単に割り切れそうもない。

 

だから、もはやこれまでと思ったら

ただいなくなるか、

延々と割り切らずに錬金術をつづけるしかない。

 

幸い、たんなる朝はいつも輝いてくれている。

 

 

 ボーロ

端的な無限からの限定の話

ボーロ

今日の永井ゼミでの時間論は熱かった。

 

発表者のTさんはとにかく素晴らしかった。

先生との対話が溢れ出た。

 

ヒューミアンのNさんは、

未来の不思議さにこだわっていた。

 

ゼミのあと、

与えられた無限定からの限定の話をした。

それと、端的な無限からの限定の話をした。

前者は近代以降の、凡庸な話。

 

近代以降でもヒュームは実は、

後者の話を問題にしていたのだ。

 

つまりヒュームにとって、

未来は端的な無限だ。

端的な無限がやってきて、

なぜか現在でこうなる。

それはどうしてだ?

 

同じ近代以降では、

サルトルも逆向きでヒュームと同じだ。

未来は端的な無限だ。

端的な無限へやっていくと、

なぜか現在でこうなる。

それはどうしてだ?

 

 

 ボーロ