哲学の中庭

…と、真理の犬たち

ジャコメッティの樹

国立新美術館の「ジャコメッティ展」は、

立像から始まった。

 

プラトンの人間論、

人間は頭から下へ向かって生えた樹である、

という説を思い出していた。 

 

ジャコメッティの立像たちは、 

どうやら頭から生えているのではなさそうだ。

 

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さて、これらはどこから生えているのか?

 

足下はしっかりとしているが、

植物のように下から生えているようには見えない。

 

「浮遊」という言葉も見かけたが、

本当に浮遊しているだけだろうか。

 

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そうして観て進むうち、

思い当たった。

 

大腿?

いやちがう、膝だ。

膝から上へ、そして膝から下へと生えている。

 

そのように見えているものを

自分の身体へと移しかえると、

膝に充実感がおこり、

自分が膝にいる感覚を味わえた。

 

そういえば小林先生に、

「地を天につなぐのは膝だよ」

と言われたのだった。

 

僕に見えたジャコメッティの場合、

膝から生えているのは立像だけだった。

胸像では、胸の上から首が生えたり、

顔の彫刻では、真ん中のところから鼻が生えたりしていた。

 

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7月に観たヴォルスは、

宇宙に遍在する形を探求していた。

 

ジャコメッティは、

宇宙に遍在する〈生える〉ということを、

探求の主題の一つにしていたのではないだろうか。

 

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 ボーロ

ダイアレクティック(あるいは対話)をめぐるパラドックス

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イングランド

出会った先生方の多くが、

石黒ひで先生のことを

非常に高く評価していたのを

よく憶えている。

 

その石黒先生の指導について、

河野先生からお話を聞くことができた。

 

ポジションをとりなさい。

そのポジションにコミットして、

それを可能な限り擁護しなさい。

 

対立しあう複数の立場を明確に立てて、

そのうちの一つに強くコミットする。

僕の理解では、

これこそが西洋的ダイアレクティックだ。

 

対立しあう複数の立場があるとき、

それらを簡単に調停しようとしない。

まとめようとしない。

つまり、

俯瞰する上からの観点を拒み、

あくまで下にある観点のうちの一つをとる。

 

そうして重心を低くとりながら、

上への構築をめざす。

これが、西洋の伝統構築に

おそるべき強度を与える。

 

さて、永井先生から、

田島先生の哲学についての

解説を聞く機会もあった。

 

いま何が問題であるのか、

いま何が対立しあっているのかは、

未来の時点で問題解決が訪れたときに、

初めて明らかになる。

いまわかるのは、

何か問題があるということだけ。

 

(ところで、「対話」にひきつけて考えると、

僕の解釈はこうなる。

いま何の問題について対話しているのか、

いま対話者たちが

それぞれどういう観点で話しているのかは、

いつか問題解決が訪れたときに

はじめて明らかになる。

いまわかるのは、

何か対話すべき問題あるということだけ。

この考え方は僕の実感にとても合う。

「この人と話したいことがある」

「この対話に参加していたい」

ということがわかるだけで、

何について話せばよいのか、わからないことが多い。)

 

この考え方をとれば、

いま正しくポジションを一つとること、

いま正しく重心を低くとることは、

そもそもできない。

そのようなポジション取りが

きちんとできるようになるのは、

いつか問題解決が訪れたときだからだ。

 

では、重心を低くして一つの観点をとるべきなのか、

それとも、

正しくそんなことができるというのは誤りなのか。

 

…という問題、ダイアレクティックについては、どうだろう?

どちらかにコミットすべきだろうか。

それとも、

正しくそのようなことはできないだろうか。

 

…という問題、ダイアレクティックについては、どうだろう?

どちらかにコミットすべきだろうか。

それとも、

正しくそのようなことはできないだろうか。

 

…という問題、ダイアレクティックについては、どうだろう?

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 ボーロ

「物語」について考えたつづき ~絵画・演劇・哲学へ~

コアトークカフェの、

「物語」をテーマにした哲学対話に参加してきた。

 

 

哲学対話なので、もやもやが気持ちいいのだが、

今回はすっきりと整理できたところも多かった。

やはり素晴らしい対話の場所だ。

 

さて、「物語」とは何か?

 

「物語」は、「事実の羅列」とは違い、

全体を一本につなげる何かを必要とする。

 

かといって、

事の全貌を網羅的に記述すると、

それはただの「説明」になってしまう。

 

網羅的な「説明」から、何かをそぎ落とさなければ、

「物語」はあらわれない。

 

参加者の一人が、こんな例で話をしていた。

目の前のテーブルの上にあるものをこと細かに言うと、

それは説明になってしまう。

でも、緑色をしたガラス瓶、とだけ言ってみると、

少し物語らしくなる。

 

なるほど、たしかに。

不思議だ。

絵画について考えると、手がかりが得られるだろうか。

  

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 ▲ ジョット《哀悼》

 

小林康夫先生は『絵画の冒険』のなかで、

十四世紀初頭のジョットの《哀悼》について、

その表象の中心が、

エスの顔とマリアの顔のあいだの

「わずかな距たり」にあると書いている。

そこに絵の意味が「動的に収斂していく」と。*1

 

そして、

中世の「ビザンティン様式であれば考えられないこと」として、

最も手前側でこちらに背を向けている、

二人の人物の存在を指摘している。*2

 

「イエスとマリアの顔のドラマ」は、

この二人にはさまれた空間で起きている。

この二人は、絵を見る人々の「代表者」として、

絵の中の空間と、絵を見る人々のいる空間とを、

「連続」させている。*3

 

意味の中心へと向かう、動的な指し示し。

そして、意味をもつ空間と観賞者のいる空間との連続性。

 

これらは、「物語的」と言うことはまだできないとしても、

「演劇」において典型的にみられることだ。

つまり、ストーリーでないとしても、「ドラマ」。

 

十年ほど前、初めてヴァティカン美術館を訪れたとき、

次々にならぶ古代ギリシャ - ローマの彫刻を観ながら、

「偉大さ」ということについて考えていた。

  

 ▼ ヘラクレス

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いま思えば、それは演劇的な偉大さだった。

人間を超えているとか、崇高だとか、

単純にそういうことではない、演劇的な偉大さ。

 

まるで彫刻自身がいまにも大いなる神話を演じはじめ、

そこから物語が始まりそうな気配に満ちている。

 

「この、緑色をした、ガラス瓶」

これが物語的だとすれば、

それは詩ではなく演劇なのだ。

 

しかし、「演劇」とは何だろうか。

「演劇的」とは何だろうか。

 

ここでいったん思考を閉じる前に、

哲学へと話をつなげてみる。

 

ソクラテスを主人公とする

プラトンの対話篇は演劇的だ。

そして、そうでなければ相応しくないような

偉大なものをめぐり、

あるいは偉大なものへ捧げて、

対話がくり広げられる。

 

つまりたとえば、

「〈正義〉や〈節制〉などと同じ仕方で〈善〉についても説明してください」

ではなく、

こうでなければ論じられないことがあるのだ。

 

「どうかゼウスに誓って、ソクラテス」と、ここでグラウコンが言った。「まるでもう終わりまで来てしまったように引き下がらないでください。私たちとしては、あなたが〈正義〉や〈節制〉その他について話された、あれと同じ仕方で〈善〉についても説明してくださるなら、それで満足するでしょうから」*4

 

 

 ボーロ

*1:東京大学出版会、2016年、17頁

*2:同上

*3:同上

*4:プラトン『国家(下)』藤沢令夫訳、岩波文庫、1979年、18頁

子どもは思考も身体もふにゃふにゃ

思考が硬直しがちな人は、

身体が硬直しがちに見える。

 

大人になると思考が硬直しがちになるのは、

身体を含めた自分の存在全体のとる構えが

硬直するからだ。

 

自分の生活、

自分の心、

自分の身体にばかり注意を向けていると、

自分というもの全体の構えが硬直してしまう。

すると、思考までもが硬直してしまう。

 

子どもは思考も身体もふにゃふにゃ。

 

構えは世界に向け、

注意を世界と自分のあいだで往復させる。

 

すると構えは緩み、

思考は流動を始める。

 

別の面からはこう言える。

分離する厳しさというものは、

思考を強固にする一方で、

思考を硬直させる。

 

その厳しさを解いて、

世界と他人を受けいれる。

すると、思考が流動しはじめるのだ。

 

(僕が哲学対話においてまず大事だと思うのは、この流動が起こること。

西洋哲学の理念とは異なるが、厳格さは補助的な役割を果たせばよいと思っている。

哲学対話はうまくいかなくたっていい。

それどころか何が起きたっていい。

それは世界で起きることなのだから。

そう受けいれてしまうと、うまくいかなかったと思った対話が、思考を流動させてくれるようになる。)

 

 

 ボーロ

苦しみとの結合

ひたすらに慈愛を説くキリスト教

慈愛は苦しみを生むが苦しみをも受容せよと。

 

はたらくのは結合の原理。

結合は苦しみを生むが、

苦しみとさえ結合する生のありかた。

結合の大体系化としての生。

 

分離の原理によって

一なる始元に近づこうとするのが

仏教だとすれば、

結合の原理によって

一なる始元に近づこうとする

キリスト教

 

 

 ボーロ

洗礼のパラドックス?

オックスフォードの年輩の哲学者たちと

食事をしていたら突然、

一人がかしこまって

僕のほうを向き、

 

「皆で話し合って、

ショウゴにキリスト教の洗礼を

受けてもらうことにしたよ。」

 

唖然としたものの、

(英国流?)冗談だった。

 

けれども、

洗礼のもつ意味を信じていないなら、

洗礼を受けたって何ともないはずでは?

 

あるいは、

洗礼には宗教的意味だけでなく

社会的意味があり、

それを信じているから

受けないのだろうか。

 

しかし、

洗礼の社会的意味だけを

信じているのであれば、 

「あくまで一つの異文化体験として

洗礼を受ける」

という但し書きを付けることも

可能なのでは?

 

あれ以来、 時々そんなことを

あれこれ考える羽目になった。

 

洗礼のパラドックス

 

 

 ボーロ

本に呼ばれるという試練

本屋に呼ばれるときは、

本が呼んでいるのかもしれない。

 

八重洲ブックセンターには、

哲学コーナーのあるフロアより

上の階に行こうとすると、

こんな試練まであった。


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 *1

 

いまはエレベーターがあるらしい。

この看板、いまはいずこ…

 
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 ボーロ