哲学の中庭

…と、真理の犬たち

マフィンからボーロへの秘密の手紙


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引用*2

私の哲学の方法は弁証法だが、弁証法のモデルは対話ではなく対話の不成立だ。対話する双方が相手の言っていることが本質的に理解できないような地点にまで対立点を先鋭化させる-一人の人間がそのように思考することによって、原理的に理解しあえない二人となる。そこから初めてこの現実世界が見える。

昨日の朝カルの講義では、『世独』16頁辺りを素材に、互いに相手の言っていることが原理的に理解できない唯物論独我論者と彼を説得する側の、両方の見地に同時に完全に立てるまでに自分を鍛える(自分がもともとどちらであっても)ことこそが哲学をするということなのだ、という話をしました。

したがって、「一人の人間がそのように思考することによって、原理的に理解しあえない二人となる」とは、もともとの二人の人間が「原理的に理解しあえない」二人となるという意味ではなく、そのように思考するその一人の人間が原理的に理解しあえない「二人となる」という意味です。誤解なきよう。

引用終わり

 

誤解のなきよう、と言われているが、注釈というのは誤解を含めて自らの哲学を存分に展開してよい、という(西洋)哲学の暗黙の了解があることを私は主張する。継承や解釈や誤読とは別に、注釈や注解という西洋哲学の不思議な(良いところも悪いところもあると思うがそれもさておき)ものがあるのである。

 

さて、それでだが、たとえば、「一人の人間がそのように思考することによって」とあるが、その「一人」はなぜ「一人」なのか。また「思考」というのは何のことか。弁証法というものが対話であろうが、対話というのが何であろうが、対話であろうと弁証法であろうと、それを定義しようとするところで、最もよくわかっていない「一人」とか「人間」とか「思考」とかいうのを持ち出さなければならなくなるとしたら、弁証法や対話というのはさっぱり訳のわからない代物だということになるだろう。そして実際にそうなのである。「一人」とか「人間」とか「思考」とかは、哲学において最も不明なものの代表である。

 

そこで私は、むしろこのことを逆手にとってみてはどうなのか、と勧誘したいと思うのである。つまり、弁証法や対話のほうこそ、もはや既にして全く明晰なものとしてみてはどうか、ということなのである。弁証法や対話とは何のことか、と問わねばならない、ということこそ私の言いたいことのすべてである。いずれにしても、「対立する双方が相手の言っていることが本質的に理解できないような地点にまで対立点を先鋭化させる」ことができて始めて、ここで一人の人間の思考というものが成立するに至る、と考えてみてはどうだろうか。その上でさらに、「原理的に理解しあえない二人となる」ときに、第二の思考が成立する、と考えてはどうか。こうして、対話(あるいは弁証法と呼んでも差し支えはない)が、第一人称と第二人称を生む、というのはどうであろうか。これが私の提起したい問いである。

 

このようにすれば、「したがって、「一人の人間がそのように思考することによって、原理的に理解しあえない二人となる」とは、もともとの二人の人間が「原理的に理解しあえない」二人となるという意味ではなく、そのように思考するその一人の人間が原理的に理解しあえない「二人となる」という意味です。」ということがより明晰になるのではないか。すなわち、考える主体なるものをあらかじめ想定することなく、望むのであればそもそも人間や人称などというものを全く想定することなく、一つの対話(弁証法)がありさえすれば、その一つの対話こそが、対立する二つの地点を先鋭化させることを通じて対話における二つの人称を(ようやく)成立させるのである。

 

私が何を言いたいのか、だって?いやまさに、それを思考してもらい、それが分からなくなってもらったその地点にこそ、私が言いたいことがあるわけなのだ。対話の不成立もまた対話ではないだろうか、と問うてもらえればそれでいいのではないか?

 

 

マフィン・ザ・サード

 

https://twitter.com/hitoshinagai1/status/1051835228568707072