哲学の中庭

…と、真理の犬たち

砂場の哲学

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子ども(こそ)が哲学(対話)者であるのなら、大人は子どものように哲学(対話)しなければならない。
でも、大人は本当に子どものように哲学(対話)を遊べるのだろうか。
 
砂場の子どもは砂そのものを楽しむ。これが大人には難しい。
 
さらさらの白い砂は、水がかかると、黒くしとしとになる。もっと濡れると、べちゃべちゃの泥になる。
しとしとの砂は握るとぎゅっと固まるが、べちゃべちゃの泥は握るとにゅるっと逃げる。
乾いた砂は、上から振りまくと、風に吹かれる。砂には温かいところと冷たいところがある。
砂と泥は叩くと違う音がする。泥は叩くと飛び散る。
 
このように子どもは砂場で砂そのものを楽しむ。
子どもは、砂で遊ぶのではなく、砂を遊ぶのである。
大人はすぐに子どもにごっこ遊びをさせたがる。ごっこ遊びは子どもを大人にするからだ。
砂場でごっこ遊びをするのは、もはや子どもでなく、小さな大人なのである。
しかし、本当の子どもは大人の誘いに乗らない。本当の子どもは大人の真似さえしない。
 
私は子どもに感心し、私も子どものように遊ぼうとした・・・が、まったくできない。
 
初めに私は子どものように穴を掘ろうとしたが、なぜか穴を深く掘ろうとしてしまう。
(子どもはそれを平気で埋める。)
次に私は、子どもに頼まれたので、バケツに水を汲んできた。すると、私は砂場に池を作ろうとしてしまう。
(子どもは水の入ったバケツに砂を入れる。)
 
どうしても私の遊びには目的が生じてしまい、私はまったく子どものように遊べない。砂そのものを楽しめない。
その後はもう彼の遊びを妨げないようにするのが精いっぱいだった。
 
残念ながら、本当の子どもである彼は哲学(対話)をするには幼すぎる。
でも、もし彼がもっと言葉を使えたら、どんなに素晴らし(く恐ろし)い哲学(対話)をするのか。
そんな哲学(対話)が大人の私にできるのだろうか。
 
 
フィナンシェ