哲学の中庭

…と、真理の犬たち

あなたが時間なら

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サルヴァトーレ・アダモの Si tu étais という歌に、

このような箇所がある。

 

あなたが時間なら

私は砂時計になる

あなたは私の中でおぼれる

 

Si tu étais le temps
Je serai sablier
Et tu t'égrainerais en moi

 

もう野暮なことを言い始めてしまうが、

もしあなたが時間で、私が砂時計なら、

本当のところはどうなるだろう。

 

あなたは私の中にいる?

あなたが私の中にいて、あなたが私の砂を数える?

 

それとも、私があなたの中にいる?

私があなたの中にいて、私があなたの部分を数える?

 

なかなか興味深い考え事だと思うが、

ところでもし、あなたが空間なら、私は何になろうか。

 

私にでもなろうか。

 

 

ボーロ

 

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砂場の哲学

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子ども(こそ)が哲学(対話)者であるのなら、大人は子どものように哲学(対話)しなければならない。
でも、大人は本当に子どものように哲学(対話)を遊べるのだろうか。
 
砂場の子どもは砂そのものを楽しむ。これが大人には難しい。
 
さらさらの白い砂は、水がかかると、黒くしとしとになる。もっと濡れると、べちゃべちゃの泥になる。
しとしとの砂は握るとぎゅっと固まるが、べちゃべちゃの泥は握るとにゅるっと逃げる。
乾いた砂は、上から振りまくと、風に吹かれる。砂には温かいところと冷たいところがある。
砂と泥は叩くと違う音がする。泥は叩くと飛び散る。
 
このように子どもは砂場で砂そのものを楽しむ。
子どもは、砂で遊ぶのではなく、砂を遊ぶのである。
大人はすぐに子どもにごっこ遊びをさせたがる。ごっこ遊びは子どもを大人にするからだ。
砂場でごっこ遊びをするのは、もはや子どもでなく、小さな大人なのである。
しかし、本当の子どもは大人の誘いに乗らない。本当の子どもは大人の真似さえしない。
 
私は子どもに感心し、私も子どものように遊ぼうとした・・・が、まったくできない。
 
初めに私は子どものように穴を掘ろうとしたが、なぜか穴を深く掘ろうとしてしまう。
(子どもはそれを平気で埋める。)
次に私は、子どもに頼まれたので、バケツに水を汲んできた。すると、私は砂場に池を作ろうとしてしまう。
(子どもは水の入ったバケツに砂を入れる。)
 
どうしても私の遊びには目的が生じてしまい、私はまったく子どものように遊べない。砂そのものを楽しめない。
その後はもう彼の遊びを妨げないようにするのが精いっぱいだった。
 
残念ながら、本当の子どもである彼は哲学(対話)をするには幼すぎる。
でも、もし彼がもっと言葉を使えたら、どんなに素晴らし(く恐ろし)い哲学(対話)をするのか。
そんな哲学(対話)が大人の私にできるのだろうか。
 
 
フィナンシェ

マフィンからボーロへの秘密の手紙


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引用*2

私の哲学の方法は弁証法だが、弁証法のモデルは対話ではなく対話の不成立だ。対話する双方が相手の言っていることが本質的に理解できないような地点にまで対立点を先鋭化させる-一人の人間がそのように思考することによって、原理的に理解しあえない二人となる。そこから初めてこの現実世界が見える。

昨日の朝カルの講義では、『世独』16頁辺りを素材に、互いに相手の言っていることが原理的に理解できない唯物論独我論者と彼を説得する側の、両方の見地に同時に完全に立てるまでに自分を鍛える(自分がもともとどちらであっても)ことこそが哲学をするということなのだ、という話をしました。

したがって、「一人の人間がそのように思考することによって、原理的に理解しあえない二人となる」とは、もともとの二人の人間が「原理的に理解しあえない」二人となるという意味ではなく、そのように思考するその一人の人間が原理的に理解しあえない「二人となる」という意味です。誤解なきよう。

引用終わり

 

誤解のなきよう、と言われているが、注釈というのは誤解を含めて自らの哲学を存分に展開してよい、という(西洋)哲学の暗黙の了解があることを私は主張する。継承や解釈や誤読とは別に、注釈や注解という西洋哲学の不思議な(良いところも悪いところもあると思うがそれもさておき)ものがあるのである。

 

さて、それでだが、たとえば、「一人の人間がそのように思考することによって」とあるが、その「一人」はなぜ「一人」なのか。また「思考」というのは何のことか。弁証法というものが対話であろうが、対話というのが何であろうが、対話であろうと弁証法であろうと、それを定義しようとするところで、最もよくわかっていない「一人」とか「人間」とか「思考」とかいうのを持ち出さなければならなくなるとしたら、弁証法や対話というのはさっぱり訳のわからない代物だということになるだろう。そして実際にそうなのである。「一人」とか「人間」とか「思考」とかは、哲学において最も不明なものの代表である。

 

そこで私は、むしろこのことを逆手にとってみてはどうなのか、と勧誘したいと思うのである。つまり、弁証法や対話のほうこそ、もはや既にして全く明晰なものとしてみてはどうか、ということなのである。弁証法や対話とは何のことか、と問わねばならない、ということこそ私の言いたいことのすべてである。いずれにしても、「対立する双方が相手の言っていることが本質的に理解できないような地点にまで対立点を先鋭化させる」ことができて始めて、ここで一人の人間の思考というものが成立するに至る、と考えてみてはどうだろうか。その上でさらに、「原理的に理解しあえない二人となる」ときに、第二の思考が成立する、と考えてはどうか。こうして、対話(あるいは弁証法と呼んでも差し支えはない)が、第一人称と第二人称を生む、というのはどうであろうか。これが私の提起したい問いである。

 

このようにすれば、「したがって、「一人の人間がそのように思考することによって、原理的に理解しあえない二人となる」とは、もともとの二人の人間が「原理的に理解しあえない」二人となるという意味ではなく、そのように思考するその一人の人間が原理的に理解しあえない「二人となる」という意味です。」ということがより明晰になるのではないか。すなわち、考える主体なるものをあらかじめ想定することなく、望むのであればそもそも人間や人称などというものを全く想定することなく、一つの対話(弁証法)がありさえすれば、その一つの対話こそが、対立する二つの地点を先鋭化させることを通じて対話における二つの人称を(ようやく)成立させるのである。

 

私が何を言いたいのか、だって?いやまさに、それを思考してもらい、それが分からなくなってもらったその地点にこそ、私が言いたいことがあるわけなのだ。対話の不成立もまた対話ではないだろうか、と問うてもらえればそれでいいのではないか?

 

 

マフィン・ザ・サード

 

https://twitter.com/hitoshinagai1/status/1051835228568707072

知的ケアとは ~哲学対話と「ケア」について~

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哲学対話にかかわるようになってから、

「ケア」という言葉をよく聞くようになった。

 

「ケア」― これはどういう意味だろうか。

いろんな人が使うが、みんな同じ意味で使っているのだろうか。

あるいは、そもそもみんな、

自分がどういう意味で使っているのか、意識しているだろうか。

 

意味のはっきりしない言葉がくり返されるとき、

僕は警戒心を抱いてしまう。

 

ところで、〈アール・ブリュット〉という芸術運動が、

日本では、教育やセラピーといった、

「ケア」のためのものになりがちだという話を読んだことがある。

 

芸術のための運動であって、

「ケア」のためのものではなかったのに。

 

〈フィロゾフィ・ブリュット〉たる哲学対話も、

同じ運命にあるのだろうか。

知的探求のためのものであって、

「ケア」のためのものではなかったのに。

 

ここでも僕は警戒心を抱いてしまう。

 

では、哲学対話と「ケア」を結びつけることに反対したいのか。

そうではない。

その結びつきこそ、考えどころで、知的に扱えるところなのに、

それを省略して結びつけてしまうことが、

哲学という営みと矛盾していると感じるのだ。

 

反対したいどころか、ここでの警戒心こそが、

僕自身にとっての「ケア」だ。

 

知的に扱えるものは、雑に扱ってはいけない。

だから、言葉の意味や結びつきは、雑に扱ってはならない。

哲学対話の相手も、哲学対話で発せられる言葉も、

知的に扱えるものなのだから、雑に扱ってはいけない。

リラックスしていても、楽しんでいても、

雑に扱ってはいけない。

慎重に、よく観て、大事にして、考える。

 

たとえそれが物であっても、

知的に扱える物なら、雑に扱ってはいけない。

とくに本なんかは、雑に扱ってはいけない。

知的に扱える物としての本が、

傷んだりして読めなくなってはいけない。

 

「人も言葉も物も一緒くたにして、なんだか即物的なケアだな」

と感じられるかもしれないが、

哲学という営みにただ従えば、そうなるはず。

 

だから、これこそが〈知的ケア〉だと言ってみよう。

 

 

ボーロ

 

なぜあなたは黙るのか?

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「立場」という力、パワーを笠に着て

相手を黙らせる人は、

相手が黙るしかない立場にあることを、

知っていてそうする。

 

すると、その「相手」であるあなたのほうは、

黙るしかない立場にあるから、

黙っているのだろうか。

 

じつは、そうではない。

 

あなたは、自分がひとたび声を発すれば、

これまでの世界が終わってしまうことを、

知っているのだ。

 

立場などというパワーよりも

はるかに強大な力を、

自分がもっていることを、知っているのだ。

だからあなたは、それを恐れて、

自分の声を封じている。

 

どうだろう、そのミノタウロス

大猿でも尾獣でもいい、あなたの声という恐るべきものを、

一度解放してみてはどうだろう。

 

それで壊れ去るごまかしを

積みあげた者たちのほうが、愚かなのだから。

 

 

ボーロ

 

*1:エドワード・バーン=ジョーンズ《テセウスと、迷宮の中のミノタウロス

「あなたならどんな哲学の場を作る?」という問い

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 ▲ プラトンアカデメイア跡地*1

 

 「一軒の喫茶店をまかせるから自由にやってみてほしい」と言われたとする。

あなたならどんな喫茶店にするだろうか。


二種類の人がいるのではないだろうか。

一方には、自分自身にとってのよい喫茶店のイメージを思い描いて、それを一番の手がかりにする人。

もう一方には、喫茶店について市場調査をして、それを一番の手がかりにする人。


さて、喫茶店は人がコーヒーやお茶を飲んでくつろぐ場所だが、

哲学カフェは人が哲学をする場所だ。

 

人が哲学をする場所をあなたが作ることになったら、どんな場所にするだろうか。


ここでも二種類の人がいるだろう。

一方には、どんな場所なら自分自身が哲学をできるかを考え、それを一番の手がかりにする人。

もう一方には、どんな場所なら多くの人が哲学をできるのかを調査し、

それを一番の手がかりにする人。


どんな場所なら哲学をすることができるか。それは人によって大きく異なるだろう。

たとえば「考える」ということだけをとっても、

「どんな場所なら考えるということをしやすいか」は、人によって多種多様にちがいない。


それでも一つの場所を作るとして、どんな場所にしようか。


「考える」ということをしやすいのは自分自身にとってはどんな場所か、といったことを一番の手がかりにする人は、

「どんなときに自分は考えているのか?」「そもそも自分にとって考えるとは何か?」

ような根本的な問いを避けて通れない。

そんなこんなを考えながら、場所を作っていくしかない。


その一方で、「考える」ということを多くの人がしやすいのはどんな場所か、

といったことを一番の手がかりにする人は、

少しでも多くの人を観察し、アンケートをとり、ほかの場所の人と情報交換をしながら、

経験則を固めていくだろう。


どちらがよりよい場所を作れるのかはわからないが、

どちらがより哲学をしているのかは、一目瞭然ではないだろうか。
 

 
 
ボーロ
 

勇気ある探求とは?

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 ▲ Wittgenstein, Culture and Value, pp. 38e-39e.*1

 

理念、理想ができてしまえば、

勇気も偽物になる。

本物の勇気が必要になるとき、

そんな立派なものの後押しはない。

 

さて、勇気ある探求とは何だろうか。

誰も探し当てたことのないものを求め、

誰も踏み入れたことのない地に分け入る。

 

理念、理想、立派なものの後押しは、ない。

なぜなら、立派なものは、すでによく知られたものだから。

まったく知られていないものを探し求めるためにこそ、

勇気をふりしぼるのだ。

 

だから、勇気ある探求は、

〈何だかよくわらかないものに従う〉

というかたちをとらざるをえない。

 

たとえば、

そのへんを歩いていたおじさんのことが

何だか気になってしまい、家まで着いていくことする。

 

「そんなくだらないことは誰もしない」と人は言うだろう。

そのとおりだ。

くだらないからこそ勇気が出ず、だから誰もしないのだ。

 

この「何だかよくわからないもの」を、

「ただの好奇心」と呼んでもいいかもしれない。

 

しかし、「ただの好奇心のために」という

理念、理想ができてしまえば、

勇気はたちまち偽物になるだろう。

 

 

 

ボーロ

 

*1:Translated by Peter Winch in 1980.