哲学の中庭

…と、真理の犬たち

知的ケアとは ~哲学対話と「ケア」について~

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哲学対話にかかわるようになってから、

「ケア」という言葉をよく聞くようになった。

 

「ケア」― これはどういう意味だろうか。

いろんな人が使うが、みんな同じ意味で使っているのだろうか。

あるいは、そもそもみんな、

自分がどういう意味で使っているのか、意識しているだろうか。

 

意味のはっきりしない言葉がくり返されるとき、

僕は警戒心を抱いてしまう。

 

ところで、〈アール・ブリュット〉という芸術運動が、

日本では、教育やセラピーといった、

「ケア」のためのものになりがちだという話を読んだことがある。

 

芸術のための運動であって、

「ケア」のためのものではなかったのに。

 

〈フィロゾフィ・ブリュット〉たる哲学対話も、

同じ運命にあるのだろうか。

知的探求のためのものであって、

「ケア」のためのものではなかったのに。

 

ここでも僕は警戒心を抱いてしまう。

 

では、哲学対話と「ケア」を結びつけることに反対したいのか。

そうではない。

その結びつきこそ、考えどころで、知的に扱えるところなのに、

それを省略して結びつけてしまうことが、

哲学という営みと矛盾していると感じるのだ。

 

反対したいどころか、ここでの警戒心こそが、

僕自身にとっての「ケア」だ。

 

知的に扱えるものは、雑に扱ってはいけない。

だから、言葉の意味や結びつきは、雑に扱ってはならない。

哲学対話の相手も、哲学対話で発せられる言葉も、

知的に扱えるものなのだから、雑に扱ってはいけない。

リラックスしていても、楽しんでいても、

雑に扱ってはいけない。

慎重に、よく観て、大事にして、考える。

 

たとえそれが物であっても、

知的に扱える物なら、雑に扱ってはいけない。

とくに本なんかは、雑に扱ってはいけない。

知的に扱える物としての本が、

傷んだりして読めなくなってはいけない。

 

「人も言葉も物も一緒くたにして、なんだか即物的なケアだな」

と感じられるかもしれないが、

哲学という営みにただ従えば、そうなるはず。

 

だから、これこそが〈知的ケア〉だと言ってみよう。

 

 

ボーロ