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哲学の中庭

…と、真理の犬たち

哲学対話における〈度し難い傲慢〉

UTCP Index (2012-2017) をご恵投いただいた。

封を切り、ページをパラパラとめくると、小林康夫先生のページ。

同じ冊子の隅にでも寄稿できなかったことが苦く感じられる。

 

目にしたことのある文章。

約2年前のブログの文章の再録だ。

 

対話がどの意味において(真に対等な)「対話」なのか。もしそこで、われわれが、「思考のプロ」あるいは「権威」として振舞っているのだとしたら、それは度し難い「傲慢」というものでしょう。自分の思考の基盤である存在についてどのような反省がそこでなされ、その反省がどのような新鮮な哲学的思考の創造として結実するか、を問わなければなりません。何を引き受けるのか、ですね。個々の人間の途方もない深さ、複雑さ、————もしほんとうにそれと向かい合うならば、そこからの「学び」がどのようなものであるのかを、みずからの責任において、哲学として結実させなければならないのです。なにが「真理」なのか、————それでもそう問わなければならない。そうでなければ、それは「哲学」の名を借りた別のものということになるでしょう。きわめて困難な道なのです。でも、そこにしか道はない。*1

 

その通りだ。

昨日、大学での哲学カフェで、

対話を哲学的なものへと導こうとする僕は傲慢ではなかったか。

 

街の哲学カフェで、

よき進行役を目指してきた僕は傲慢ではなかったか。

 

授業中のディスカッションで、

「哲学では理由を言うのが大事だよ」などと言う僕は傲慢ではなかったか。

 

ほんとうに対話の相手から深く学びたいと思い、

そのための態度をとれているか。

何が「真理」なのか。

 

哲学対話の会を開き、進行をするならなおさら、

度し難い傲慢は原罪ですらあるかもしれない。

これは「きわめて困難な道」だ。

 

だとすれば、哲学対話を進行したなら、

そのたびに真理に打ちのめされて、

傲慢さを自覚しようと努めるのが当然だろう。

 

昨日の対話は楽しかったと呑気にしていたら、

2年前に読んだはずの文章に打ちのめされた。

 

 

 ボーロ