哲学の中庭

…と、真理の犬たち

〈可能〉と〈存在〉の対話

 f:id:shogoshimizu:20170613075523j:plain

 

ニコラウス・クザーヌスにとって、

可能はすべてに先立つ。

だから、可能は、存在にすら先立つ。

 

「そんなはずはない。

存在こそがあらゆるものに先立つのだ。

あらゆるものは、

何らかのものである限り、

何らかのものとして、

すでに存在してしまっている。

存在こそが、

あらゆるものをあらかじめ成立させ、

可能にしているのだ。」

 

すなわち、

存在があらゆるものを可能にするのであって、

可能があらゆるものを存在させるのではない。

そのように反論する哲学者がいるだろう。

この哲学者は、

次のように言うかもしれない。

 

「あらゆるものに先立つ〈存在〉。

なぜそれが初めに存在したのか。

いや、〈存在〉が初めに存在したなどと

言うことはできない。

〈存在〉は、存在したり存在しなかったりするものではない。

〈存在〉は、それ以上さかのぼれない原初だ。」

 

さて、クザーヌスはこう言うだろう。

そのときの〈存在〉は、存在可能ということだ。

 

あらゆるものは、

何らかのものである限り、存在可能だ。

可能なあらゆるものがあらかじめ存在するのではない。

あらゆるものがあらかじめ存在可能なのである。

 

そして、あらゆるものは存在しないこともできる。

つまり、あらゆるものは非存在可能でもある。

可能が、存在・非存在に先立っているのだ。

 

ゆえに、

可能なあらゆるものがあらかじめ存在したうえで、

それらが現実化したりしなかったりするのではない。

存在が可能・現実に先立つとするのは誤りである。

可能が、存在・非存在に先立つのである。

 

「その可能とやらも、やはり、

まずはあらかじめ存在しなければならないではないか。」

相手の哲学者がそう言えば、

クザーヌスはこう言うだろう。

「存在するためには、

まずはあらかじめ存在可能であったのでなければならない。」

 

この対話は、

世界のどこを源泉とし、

どこへ流れゆくのだろうか。

 

 

 ボーロ