哲学の中庭

…と、真理の犬たち

〈可能〉と〈存在〉の対話

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ニコラウス・クザーヌスにとって、

可能は、存在にすら先立つ。

 

「そんなはずはない。

存在こそがあらゆるものに先立つのだ。

あらゆるものは、

何らかのものである限り、

何らかのものとして、

すでに存在してしまっている。

存在こそが、

あらゆるものをあらかじめ成立させ、

可能にしているのだ。」

 

すなわち、

存在があらゆるものを可能にするのであって、

可能があらゆるものを存在させるのではない。

そのように反論する哲学者がいるだろう。

この哲学者は、

次のように言うかもしれない。

 

「あらゆるものに先立つ〈存在〉。

なぜそれが初めに存在したのか。

いや、〈存在〉が初めに存在したなどと

言うことはできない。

〈存在〉は、存在したり存在しなかったりするものではない。

〈存在〉は、それ以上さかのぼれない原初だ。」

 

さて、クザーヌスはこう言うだろう。

そのときの〈存在〉は、存在可能ということだ。

 

あらゆるものは、

何らかのものである限り、存在可能だ。

可能なあらゆるものがあらかじめ存在するのではない。

あらゆるものがあらかじめ存在可能なのである。

 

そして、あらゆるものは存在しないこともできる。

つまり、あらゆるものは非存在可能でもある。

可能が、存在・非存在に先立っているのだ。

 

ゆえに、

可能なあらゆるものがあらかじめ存在したうえで、

それらが現実化したりしなかったりするのではない。

存在が可能・現実に先立つとするのは誤りである。

可能が、存在・非存在に先立つのである。

 

「その可能とやらも、やはり、

まずはあらかじめ存在しなければならないではないか。」

相手の哲学者がそう言えば、

クザーヌスはこう言うだろう。

「存在するためには、

まずはあらかじめ存在可能であったのでなければならない。」

 

この対話は、

世界のどこを源泉とし、

どこへ流れゆくのだろうか。

 

 

 ボーロ