哲学の中庭

…と、真理の犬たち

問題と問い

「私が問題Aに関心をもつのは、

私がBであるような人だからだ。」

 

このような思考、または語り方のなかで、

Bがすでに問題Aによって

規定された表現に

なってしまっている場合がある。

 

このようなときに最も、

僕はその問題の根深さを感じる。

そこまで問題の犠牲になることが

あるだろうか。

 

どうすればその人は問題の外に出て、

自分だけの問いを生きることができるだろう?

 

これ自体が哲学の問いだとしたら、

おそらくその人も哲学をやるしかない。

 

 

 ボーロ