哲学の中庭

…と、真理の犬たち

どうして哲学対話をやっているのか

どうして、

自分の哲学の外へ出なければいけないのか。

どうして、

自分の哲学を理解してくれないであろう人と、

対話しなければいけないのか。

 

そんな根本的な問いを投げかけられた。

今の僕には答えることができなかった。

 

たしかに、自分だけの問いがあり、

哲学とは、ひたすらその問いにこだわることだ。

ほかの問いなどに時間を割く、

暇も関心もない。

潔癖なまでに純粋な態度。

 

僕個人の経験では、

対話を重ねてきて得られたものは多い。

そのなかには、

自分の問いを考えるうえで役立つものさえある。

でも、自分の問いのためにと思って対話をしてきたわけではないし、

これから対話を続けていく目的がそこにあるわけでもない。

 

対話は僕にとって、世界に触れるということ。

目的は自分でもわからない。

世界に触れたいという衝動が、

自分の問いの外へ、僕を連れ出そうとする。

 

その衝動は、

自分の問いと、

どこかでつながっているのだろうか。

そう自問すると、どういうわけか、

つながっている

という確信のようなものが、

心を満たす。

 

 

 ボーロ