哲学の中庭

…と、真理の犬たち

どうして哲学対話をやっているのか

どうして、

自分の哲学の外へ出なければいけないのか。

どうして、

自分の哲学を理解してくれないであろう人と、

対話しなければいけないのか。

 

そんな根本的な問いを投げかけられた。

今の僕には答えることができなかった。

 

たしかに、自分だけの問いがあり、

哲学とは、ひたすらその問いにこだわることだ。

ほかの問いなどに時間を割く、

暇も関心もない。

潔癖なまでに純粋な態度。

 

僕個人の経験では、

対話を重ねてきて得られたものは多い。

そのなかには、

自分の問いを考えるうえで役立つものさえある。

でも、自分の問いのためにと思って対話をしてきたわけではないし、

これから対話を続けていく目的がそこにあるわけでもない。

 

対話は僕にとって、世界に触れるということ。

目的は自分でもわからない。

世界に触れたいという衝動が、

自分の問いの外へ、僕を連れ出そうとする。

 

その衝動は、

自分の問いと、

どこかでつながっているのだろうか。

そう自問すると、どういうわけか、

つながっている

という確信のようなものが、

心を満たす。

 

 

 ボーロ

世界の穴 ~哲学者たち水族館へ行く~

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哲学者たちと水族館へ。

そのなかには家族連れの哲学者もいた。

小さな息子さんの輝く魂は

好奇心に満ちて、

得体の知れない生き物たちに

眠る間もなく見入っていた。

 

大人の僕でさえ、

見たことのない生き物がまだまだいることを知り、

地球の広さを思うと途方に暮れそうだった。

 

かろうじて見たことがあるかもしれない

フグのようなのが漂いながら、

口をあけていた。

 

「見て、口あけてる、かわいい」

と女性の哲学者が言うと、

もう一人の女性哲学者が身震いしておびえた。

どうして怖がるのかを聞くと、

なかば吐き捨てるようにこう言った。

「世界の穴みたい」

 

男の子はアザラシがとくに気に入ったようで、

水槽のガラスから離れようとしない。

泳ぐアザラシも男の子に興味をもったようで、

男の子を見ながらゆっくり近づいてきては、

水中をぐるりと一周して、

また男の子を見ながらゆっくり近づいてくる、

ということをくり返していた。

 

一緒に遊びたいのかなと思っていたが、

男の子を正面から見つめるその両目が、

慈愛に満ちあふれていることに気づき、

僕は頭がくらくらしてしまった。

 

世界の穴はそんなところにもあった。

 

 

 ボーロ

問題と問い

「私が問題Aに関心をもつのは、

私がBであるような人だからだ。」

 

このような思考、または語り方のなかで、

Bがすでに問題Aによって

規定された表現に

なってしまっている場合がある。

 

このようなときに最も、

僕はその問題の根深さを感じる。

そこまで問題の犠牲になることが

あるだろうか。

 

どうすればその人は問題の外に出て、

自分だけの問いを生きることができるだろう?

 

これ自体が哲学の問いだとしたら、

おそらくその人も哲学をやるしかない。

 

 

 ボーロ

 

哲学の厳密さと直観

2つの三角形が似て見える、

同じに見える、

と多くの人が言うなかで、

論証によってそれらが合同か否かを

考えようとするのが、

幾何学の厳密さだ。

 

哲学の厳密さは、

もともとこれに相当する。

 

(似て見える、同じに見える、

という言説の、

なんと蔓延しやすいことよ。)

 

直観は、

論理の(論理でなければ何らかの外的な)

厳しさによって、

つねに精査されなければならない。

さもないと、

直観はあっという間に弛緩してしまう。

 

あの美大生の話ともつながるだろう。

センスばかり頼りにして

理論を勉強しない人は、

おとろえていくばかり。

 

 

 ボーロ

〈可能〉と〈存在〉の対話

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ニコラウス・クザーヌスにとって、

可能は、存在にすら先立つ。

 

「そんなはずはない。

存在こそがあらゆるものに先立つのだ。

あらゆるものは、

何らかのものである限り、

何らかのものとして、

すでに存在してしまっている。

存在こそが、

あらゆるものをあらかじめ成立させ、

可能にしているのだ。」

 

すなわち、

存在があらゆるものを可能にするのであって、

可能があらゆるものを存在させるのではない。

そのように反論する哲学者がいるだろう。

この哲学者は、

次のように言うかもしれない。

 

「あらゆるものに先立つ〈存在〉。

なぜそれが初めに存在したのか。

いや、〈存在〉が初めに存在したなどと

言うことはできない。

〈存在〉は、存在したり存在しなかったりするものではない。

〈存在〉は、それ以上さかのぼれない原初だ。」

 

さて、クザーヌスはこう言うだろう。

そのときの〈存在〉は、存在可能ということだ。

 

あらゆるものは、

何らかのものである限り、存在可能だ。

可能なあらゆるものがあらかじめ存在するのではない。

あらゆるものがあらかじめ存在可能なのである。

 

そして、あらゆるものは存在しないこともできる。

つまり、あらゆるものは非存在可能でもある。

可能が、存在・非存在に先立っているのだ。

 

ゆえに、

可能なあらゆるものがあらかじめ存在したうえで、

それらが現実化したりしなかったりするのではない。

存在が可能・現実に先立つとするのは誤りである。

可能が、存在・非存在に先立つのである。

 

「その可能とやらも、やはり、

まずはあらかじめ存在しなければならないではないか。」

相手の哲学者がそう言えば、

クザーヌスはこう言うだろう。

「存在するためには、

まずはあらかじめ存在可能であったのでなければならない。」

 

この対話は、

世界のどこを源泉とし、

どこへ流れゆくのだろうか。

 

 

 ボーロ

知への愛ではない、愛とは知りたいということ

哲学対話をすると、

わからないことが余計に増える。

 

けれども、いろんな問いが、

みんな深いところでつながっている、

ということはわかる。

そんなことをつくづく感じた

哲学カフェの日だった。

 

「恋愛感情は必要か?」

「人としてなくしてはいけないものは何か?」

「生きている価値とは?」

リテラシーとは?」

「気づきとは何か?」

「夫婦とは何か?」

「哲学とは何か?」

 ・

 ・

 ・

 

めぐろ哲学カフェでは、

あえて問いをしぼらずに、

1つの問いから対話を始めながらも、

問いどうしのつながりを

意識しながら対話を進めていく

ということをするときがある。

 

恋愛では、相手のことを知りたい。

哲学は、知ることへの愛。

リテラシーの根底にあるのは、

知りたいということ。

 

知りたい。

それが阻害されるから、

満たされないから、

おかしなことになる。

 

ということは、

それは必要なのだろうか?

なくしてはならないものなのだろうか?

 

知りたい。

どこまで知りたい?

 

 

 ボーロ

 

まさにここにあるもの

「哲学では、

一般的なものについてだけでなく、

個物について考えることができるんです。」

そう若者は言った。

 

何をわかったようなことを。

目の前の人間ですら見えてないくせに。

 

僕は言った。

「あなたは、ここにある筆箱や紙について

考えていますか?

これらこそが個物、特殊者です。

あなたは個物一般、普遍的な特殊者について

考えているにすぎません。」

 

若者はよく理解できないようだった。

すると、近くにいた女性が、

若者に向かって説明した。

 

「まさにここにあるものについて

考えなければ、

個物、特殊者について考えたことには

ならないということです。

まさにここにあるもの。」

 

まさにここにあるもの。

それは筆箱や紙のような

物ではないのかもしれない、と思った。

 

明け方の夢はそんな夢だった。

 

 

 ボーロ