哲学の中庭

…と、真理の犬たち

向日葵の種

いろんなルートから考え続けているけど、どうも世界は向日葵の種のような形をしているようだ。

主観からの超越構成の議論だと、「どの主観?」という根本的な疑問が飛び越されてしまうしかない。そして、主観一般が超越一般を構成する議論が展開される。主観一般の話だから、近年では脳神経科学実験心理学が不可欠とまで言われる。

言い換えれば、主観から出発しようとすると、「どの主観?」という根本的な疑問ですでにつまずくか、それを飛び越すしかなくなるのだ。

このところ僕が超越を含めた全体のほうから議論をしているのはそのためだ。全体の限定として主観を考えれば、他の主観がどのように限定され、なおかつ〈この主観〉がどのように限定されるのか、という議論が展開できるかもしれない。

そのようなわけで、向日葵の種が出てくる。奇遇にもウィトゲンシュタインは、世界と主観の話をしながら向日葵の種のような図を描いて、「視野がこのような形をしていないのは確かだからである」と書いた。

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 ボーロ