哲学の中庭

…と、真理の犬たち

哲学対話における知的安全性とは?

このブログの文章、きわめて重要なことを言っている。とくに3ブロック目の対話がすごくいいと思う。

知的安全性とは、リラックスして何でも言える安心感のことではない。知的安全性とは、真理探求が邪魔されない、台無しにされないという安心感。だとすると自分も邪魔したり台無しにしてはいけないのだから、真理や知恵に対する畏怖や緊張感が生じるのは必然。

これは知的権威に対する畏怖や緊張感とはまったく違う。あくまで真理探求を前にして、自分が対話においてそれに貢献できるのかという考えから生じる畏怖、緊張感。

知的安全性とは、そのような畏怖や緊張感があったとしても、いや、そのような畏怖や緊張感があるからこそ、いま言おうとしていることを勇気とともに言ってもよいという後押しのことなのだ。

以上は僕なりの解釈、あるいは僕がこの人から学んだこと。

通俗的に理解されているような、「何でも言える安心感」という意味での安全性は、(このブログで言われているように子どもの場合などは別として)しばしば真理探求を妨げてしまう。真理探求とはほかの関心から話し続ける人、ただ権威や常識を無視したり挑発したりするためにずけずけ私見を述べる人、こういった人たちの声ばかり大きくしてしまい、緊張感をもって真理探求をしたい人は黙ってしまうのだ。

 

 

 ボーロ