哲学の中庭

…と、真理の犬たち

目の前にいる私を見て

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目の前にいる人に、

何者として扱われたいだろうか。

何者として見られたいだろうか。

 

〈人間を、

たんに手段としてのみ用いてはならず、

同時に目的とせよ〉

というカント的な義務がある。

 

しかし、

この義務を果たすための手段として、

人間を用いてよいのだろうか。

 

実際、

この義務を果たそうとする人が、

私を目の前にして、私のことを、

この義務が果たされる人間の一人として

見ようとしていたら、どうだろう。

 

つまり、私のことを「目的」の一つとして

見ようとしていたら、どうだろう。

 

私をそんなふうに見ないでくれ。

そんな義務やら理念やらを当てはめて見ないでくれ。

私はたった一人の生身の存在として、

あなたの前にいる。

そう言いたくはならないだろうか。

 

存在論的に、実存は本質を超える。

倫理的には、実存は理念にとっての手段へと後退する。

 

 〈人間を、

たんに理念を当てはめてではなく、

同時に実存として見よ。〉

 

仮にそのような理念を立てたとしても、

目の前にいる人間は、

そのための手段へと後退してしまうのだ。

 

 

ボーロ