哲学の中庭

…と、真理の犬たち

「まともではない人間」とは何か? — 人間探求にまつわるパラドックス

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ヴィクトール・フランクルは、

強制収容所の監視者たちを観察した経験から、

このように書いた。

 

こうしたことから、わたしたちは学ぶのだ。この世にはふたつの人間の種族がいる。いや、二つの種族しかいない、まともな人間とまともではない人間と、ということを。このふたつの「種族」はどこにでもいる。どんな集団にも入りこみ、紛れこんでいる。*1

  

「まともではない人間」が、集団のなかで

何かしらの力(power、権力)を手にしたとき、

そこは地獄へと変わる。

 

「まともではない人間」はその力によって

希望さえ根こそぎ奪いにかかる。

「この集団を抜ければ地獄は終わる」

という希望さえ。

 

であれば、人間が集団のなかで生きていく以上、

「まともではない人間」を何とかすることは、

緊急かつ必須ではないだろうか。

 

だがそこで、私たちはうろたえざるをえない。

 

そもそも「まともではない人間」とは何か?

 

この問いを発するのはもっぱら「まともな人間」で、

ここで「まともな人間」は、

永遠に理解不可能かもしれない対蹠の種族について、

自らの側から知ろうせざるをえないことに気がつくのだ。

 

 

 

ボーロ

 

*1:『夜と霧 新版』池田香代子訳、みすず書房、2002年、144~145頁。