魂の錬金術と魔法少女
今月の終わりにワルプルギスの夜が来る。
昔、イングランドの魔女たちとすごした
ワルプルギスの夜は忘れがたい。
とくに何がって、
鳥のさえずるたんなる朝の輝きが。
遅ればせながら、
「魔法少女まどか☆マギカ」を観て
身につまされている。
僕は人と真にかかわるとき、
自分の精神のためか、
または他人の魂のためだと思ってそうする。
後者は大それているのかもしれない。
かといって、そのかわりに
いわゆる「教育的」な行いをするというのも
よくわからない。
他人を見て「それはあんまりだ」と、
魂を穢すものを祓いに行っておきながら、
自らが穢れを発するものにならないように
気をつけないといけない。
それならば、
まともに「教育的」な行いができる人間を
目指せばいいじゃないか。
たぶん僕にはそれができないのだ。
だから少なくとも、たとえば、
「大人になっちゃダメ」などと言いながら、
そればかりを言う大人を増やしたがっている
大人にはならないようにしないといけない。
(夢の成れの果てとしての幻想増殖。)*1
大人になることそれ自体は、
魂が穢れることではない。
でも僕のような人間が大人になると、
穢れのもとになりかねないのかもしれない。
(概念になりそこなった夢の
成れの果てとしての幻想増殖。)
それはどのような人間か。
それは、他人の魂を変えるという奇跡を
起こそうと思っている人間だ。
他人の生を変えるという夢を
叶えようとする人間。
それなら、魂の錬金術は自分のためだけに使おう。
そう考えてみても、
僕には簡単に割り切れそうもない。
だから、もはやこれまでと思ったら
ただいなくなるか、
延々と割り切らずに錬金術をつづけるしかない。
幸い、たんなる朝はいつも輝いてくれている。
ボーロ