哲学の中庭

…と、真理の犬たち

向日葵の種

いろんなルートから考え続けているけど、どうも世界は向日葵の種のような形をしているようだ。

主観からの超越構成の議論だと、「どの主観?」という根本的な疑問が飛び越されてしまうしかない。そして、主観一般が超越一般を構成する議論が展開される。主観一般の話だから、近年では脳神経科学実験心理学が不可欠とまで言われる。

言い換えれば、主観から出発しようとすると、「どの主観?」という根本的な疑問ですでにつまずくか、それを飛び越すしかなくなるのだ。

このところ僕が超越を含めた全体のほうから議論をしているのはそのためだ。全体の限定として主観を考えれば、他の主観がどのように限定され、なおかつ〈この主観〉がどのように限定されるのか、という議論が展開できるかもしれない。

そのようなわけで、向日葵の種が出てくる。奇遇にもウィトゲンシュタインは、世界と主観の話をしながら向日葵の種のような図を描いて、「視野がこのような形をしていないのは確かだからである」と書いた。

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 ボーロ

哲学対話における知的安全性とは?

このブログの文章、きわめて重要なことを言っている。とくに3ブロック目の対話がすごくいいと思う。

知的安全性とは、リラックスして何でも言える安心感のことではない。知的安全性とは、真理探求が邪魔されない、台無しにされないという安心感。だとすると自分も邪魔したり台無しにしてはいけないのだから、真理や知恵に対する畏怖や緊張感が生じるのは必然。

これは知的権威に対する畏怖や緊張感とはまったく違う。あくまで真理探求を前にして、自分が対話においてそれに貢献できるのかという考えから生じる畏怖、緊張感。

知的安全性とは、そのような畏怖や緊張感があったとしても、いや、そのような畏怖や緊張感があるからこそ、いま言おうとしていることを勇気とともに言ってもよいという後押しのことなのだ。

以上は僕なりの解釈、あるいは僕がこの人から学んだこと。

通俗的に理解されているような、「何でも言える安心感」という意味での安全性は、(このブログで言われているように子どもの場合などは別として)しばしば真理探求を妨げてしまう。真理探求とはほかの関心から話し続ける人、ただ権威や常識を無視したり挑発したりするためにずけずけ私見を述べる人、こういった人たちの声ばかり大きくしてしまい、緊張感をもって真理探求をしたい人は黙ってしまうのだ。

 

 

 ボーロ

哲学のための地味な作業

僕はイングランド分析哲学畑で論文指導を受けた経緯があるので、質疑応答といえば、第一に論証の妥当性チェック。論証の各ステップによる推論のチェックだ。第二には、問いと論証がもつ前提の真理性チェック(真偽の検討)。

これらをするうえでは、問いと論証にとって外的なもの(たとえば教養や質問者の意見)は不必要だし、しかもそれは忌避される。

ひたすら地味な作業である。そのうえ、この作業をするためには、発表される議論が、きちんと問いから始まっていて、結論までの論証が筋道立てて書かれていなければならない。つまり脇道なく地味に書かれていなければならない。

さて、日本に帰ると、一見論証的に書かれたり発表されたりしたものでも、問い→論証というように必ずしもなっていない。たとえば、問題や論争の文脈解説から始まっていたりすることが多い。

そうすると、そもそもの議論の形がどうなっているのかが気になってしまい、「地味な作業」以前の、細かい確認のための質問をたくさんすることになる。ここで、「この人は何を細かいことばかり言ってるんだろう、哲学をしたいのに」という雰囲気になることもある。

こちらとしては、その細かい確認作業がぜんぶ終わり、問いと議論が明らかにならないと、哲学は始められないと思っているのだ。(これでも最近は、細かい確認を少しあきらめたうえで哲学的な質問もできるようになってきたのだが…)

でもね、ゼミの後輩にあたるTさんなんかは、論文にコメントを付けると、細かい質問にもすべてぴっちり応えてくる。そうすると、議論の明瞭さや説得力だけでなく、哲学的な面白みも格段に増すんだよね。そして読んでいてスリリングなものになる。

しかもTさんは、すでに確認作業があまり必要ない議論を自分で組み立てられるようになってきている。哲学的直観にも秀でたTさんにとって、これは大きな武器だ。頭の中の思考でさえ鋭利で強靭なものになってきているのが、話していてわかる。

誤解のないように付け加えると、誰もが分析哲学のトレーニングを受けるとよいと言っているのではない。明晰かつ論理的に考えたいなら、そのための方法や伝統があるよということだ。その伝統はとくに分析哲学のものではなく、ギリシャにまで遡るものだろう。

 

 

 ボーロ

世界は謎の総体である

世界は謎の総体であり、事実の総体ではない。
The world is the totality of enigmas, not of facts.

世界を適切に記述するのは疑問文の集合であり、平叙文の集合ではない。
The world is properly described by a collection of interrogative sentences, not by a collection of assertive sentences.

謎は事実に先立ち、疑問は平叙に先立つ。
Enigmas precede facts, while the interrogative precedes the assertive.

 

 

 ボーロ