哲学の中庭

…と、真理の犬たち

何が循環を引き起こすのか? ~現象論的唯一性と形而上学的唯一性~

空間には、私を中心とした向きがある。

上下、左右、前後、のように。

 

さて、空間の向きの「中心」は唯一だ。

そう観念論や現象学は説明する。

だとすると、他人を中心とした向きは、

私を中心とした向きの、

何らかの仕方での複数化(分有)だということになる。

 

 この考え方をとれば、

「たくさんの身体があるなかで、

どれが私の身体なのかがわかるのはなぜか?」

という問いに対する答えは明快だ。

答えは、

「空間の中心は唯一で、

その中心にあるのが私の身体だからだ」

というようなものになる。

 

これは観念論または現象学なので、

各人(各主体・各主観)が、

そのようにして「私の身体」を

見つけていることになる。

 

では、こう問われたらどうだろうか。

各人にとっての中心があり 、

各人が(同じようにして)そこにある身体を

「私の身体」として見つけているならば、

そのうちのどれが私の身体なのかが

わかるのはなぜか?

 

観念論や現象学は、

先ほどと同じように答える。

「空間の中心は唯一で、

その中心にあるのが私の身体だからだ。」

 

この答えはやはり各人にあてはまるため、

問いと答えのあいだで

観念論的循環もしくは現象学的循環と

呼ぶべきようなものが起こる。

 

この循環を起こしているものは何なのか?

観念論や現象学は、

この問いに答えることができない。

せいぜい「唯一の中心」をふたたび持ち出して、

同じ循環を続けてしまうだけだ。

 

この循環を起こさないように、

独我論をとることもできる。

「各人」など存在せず、私だけが存在する。

だから「各人にとっての唯一の中心」

なども存在しない。

存在するのは「私にとっての唯一の中心」だけだ、

というように。

 

しかし、独我論をとらずに、

ここで循環を引き起こしているのが

何であるかを言うことはできない、

という方向で考える哲学者がいる。

永井均氏、入不二基義氏)

つまり、ここで循環を引き起こしているのは、

事象内容的な「本質」ではない、

〈実存〉もしくは〈現実性〉だという考え方だ。

 

この考え方は、

空間の向きによる身体の特定は

各人にとって起きている事象にすぎない、

という水準で問題を立てる。

だから、身体の特定は、

「どれが私なのかがわかるのはなぜか?」

のような問題とは無関係となる。

 

私はこの考え方の基本的な部分を受けいれ、

循環を引き起こしているのは、

私や世界を超越した何かだと考えようと試みている。

 

空間の向きの源泉が、超越的な何かだとする。

私の身体も他人の身体も、それどころか世界全体も、

そのような向きの中にある。 

 

ただ、私の身体だけが、超越的な源泉と特別な関係をもつ。

だからこそ、それが端的に私の身体であり、

それが私の身体だということが私に顕わになっている。

 

そのことによって循環が引き起こされるのだが、

内在的には、それは隠れてしまうというわけだ。

 

詳説はいずれきちんと発表したい。

 

 

 ボーロ