哲学の中庭

…と、真理の犬たち

翠玉白菜の中身はどうなっているのか?

台北故宮博物院にある

白菜のことを考えさせられていた。

翠玉白菜」と呼ばれているらしい。

 

 

たとえば、白菜の絵があるとする。

白菜は土の表面にできるものなので、

白菜が木の幹のうえに鎮座しているような絵を描いたら、

これは白菜の絵としては不正確だということなる。

 

(イメージ)

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絵について「正確」「不正確」を言えるのは、なぜか。

それは、絵が、絵のそとの世界を指しているからだ。

絵のそとの世界と照らし合わせて、

絵は正確だったり不正確だったりする。

 

さて、ここに正確な白菜の絵があるとする。

その絵を指して、

「この白菜は内側にも葉がついている」

と言うと、それは正しいことになる。

 

絵には、白菜の内側は描かれていない。

にもかかわらず、

「この白菜は内側にも葉がついている」

と言うと正しいことになるのは、なぜだろうか。

 

それは、やはり絵がそとの世界を指しているからだ。

そして、そとの世界の白菜は、

内側にも葉がついている。

絵がそとの世界を指していて、

その絵を指して人が話している、

というふうになっている。

 

 さてさて、問題の「翠玉白菜」である。

(なんでも鑑定団みたい。)

翠玉白菜について、

白菜の彫刻として正確かどうかを、

問うことができる。

それは、翠玉白菜が、

(彫刻の)そとの世界の白菜を指しているからだ。

 

そこで、故宮博物院翠玉白菜を指して、

「この白菜は内側にも葉がついている」

と言うとする。

 

周囲の人は変に思うかもしれないが、

これは正しい発言のはずだ。

白菜の絵がそとの世界の白菜を指すように、

翠玉白菜もそとの世界の白菜を指す。

それなら、白菜の絵を指して言って正しいことを、

翠玉白菜を指して言って正しくないはずがない。

 

ここで僕は考えてしまうのだ。

彫刻には、絵とちがって、

本当に内側がある。

翠玉白菜の内側はどうなっているのだろう?

 

翠玉白菜が正確な彫刻なら、

もしかすると、

翠玉白菜の内側には翡翠でできた葉があって、

そとの世界の白菜の内側にある葉を

(正確に)指しているのかもしれない。

 

でも、どうやってそれを確かめればよいのだろう?

どうやって翠玉白菜の外側の葉をはがせばよいのだろう?

 

こんなことを言ったとされる天才にならできるだろうか。

「すべての石の塊の中には彫刻がある。

彫刻家のつとめはそれを取りだすことだ。」

 

 

 ボーロ