哲学の中庭

…と、真理の犬たち

「二人静」について ~能舞台にみえるものとみえないもの~

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観世能楽堂へ行った。

能の演目は「絵馬」と「二人静」。

狂言は「柑子」。

 

能を観にいくのは、

この世ならぬものをこの目で見るため。

 

狂言を観るのは、

意味を脱した滑稽で笑うため。

 

いわば、能はこの世を上に超えており、

狂言はこの世を下に超えている。

 

能は、この世ならぬものを出現させる。

出現させ、浄化がもたらされる。

それにより、観る人間も浄化される。

 

現代の通俗的カタルシスでは

遠く及ばないことが起こるのだ。

ギリシャ的観点からの考察は

こちらの記事を参照。)

 

さて、ここは哲学の中庭なので、

無粋な哲学を書こう。

 

「絵馬」は、

天照大神、天鈿女命、手力雄命の三神が出現し、

天岩戸隠れを再現するという、

宇宙的スケールの祝祭。

神々の直線的な動と静が、

天体の運動のようでもあった。

 

二人静」には、上の写真のように、

二人の静御前が出現する。

一人は、静御前に憑かれた女。

もう一人は、静御前の霊そのもの。

 

だから、一人は生きた人間の体をもって

そこに存在するのだが、

もう一人はそうではない。

この決定的な違いにもかかわらず、

二人はまったく同じようにして

そこにいるように見える。

 

能には、

人間に憑いた霊が出現することがある。

この場合、人間の体という姿が、

誰の目にも見える設定になっている。

 

それに対して、「絵馬」のように、

神々や霊そのものが出現する場合には、

人間の体はそこにはないことになっている。

つまり、誰の目にも見える姿がそこにあるのかどうかは、

曖昧な設定になっている。

 

能は生きた人間の体を使って演じられるため、

これら二つの場合を、

舞台上で明確に区別することはできない。

(観る側が設定を投影しながら観るしかない。)

 

そのことを逆手に取り、

二人静」は決然と訴える。

それら二つの場合は、同じことなのだ、と。

 

 

ボーロ