哲学の中庭

…と、真理の犬たち

愛知者にとって他者とは

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知を愛する人にとって、

固執は大きな妨げとなる。

 

知に少しでも近づくためには、

いまの自分の考えから

とにかく動かなければならない。

 

考えを変えずにとどまっていては、

知に近づくことは当然できない。

 

ただ、「考えが変わる」といっても、

自分の考えの体系(信念体系)の

周縁にある考えが変わることなら、

日常でもよくある。

 

(ちょっとした勘違いや、

情報不足による思い違いは、

あらためることがそう難しくない。)

 

その一方で、自分の考えの体系の、

中心部分をなす考えは、強く保持されている。

 

そのような考えが変わるためには、

よほど衝撃的な経験をしなければならない。

自分の考えの体系が破壊的な打撃を受け、

統合を失うような経験だ。

 

そのようなできごとは、

何度も起きるわけではない。

 

だから、知を愛する者にとっては、

慎ましさが美徳となる。

 

たとえば、師と仰ぐ人をもつ。

その人が、

私の体系の中心をなす考えと

食い違うことを言ったなら、

私の考えを変えてみることができる。

 

いわば、鵜呑みにしてみる。

自分で検討したうえで賛否を判断すると、

その検討や判断を支える考えは、

いつまでたっても変わらない。

 

ここで肝心なのは、

〈師〉にあたる他者を、

自分の考えの体系に組み込まないこと。

 

たとえば、

「この人の言うことは正しい」

ということを、

自分の考えの一つとして、

考えの体系に組み込んではいけない。

そうすることは、

自分のその考えに固執することだからだ。

 

自分の考え、検討、判断、

そうしたものの外から否応なしにやってくる。

そういう他者がいてくれるといい。

(対話とはそういう他者に出会うこと。)

 

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ボーロ