哲学の中庭

…と、真理の犬たち

哲学書を哲学書として読むには

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 ライプニッツと書簡を交わしたゾフィーシャルロッテ王妃*1

 

哲学書を、

文学作品のように読んでいては、

いつまでたっても哲学はできない。

 

哲学書を読むと、

世界が違うしかたで見えたりする。

たしかに哲学書には、

その種の、芸術のような効果もある。

しかも、その効果は、

必然的に伴われるものかもしれない。

 

しかしながら、

それは、哲学書を哲学書として読む

目的ではけっしてない。

 

世界の新しい見えかたを、

いくら味わっても、

それは芸術的な体験であって、

哲学をすることではない。

 

また、複数の哲学書をもちだして、

異なる世界の見えかたを比べたりしても、

それは芸術評論、文芸批評にこそなれ、

哲学をすることにはならない。

 

では、どうすれば哲学をすることになるのか。

 

ここにくると、哲学はいつもシンプルだ。

問いを立てて、言葉を使って考える。

それに尽きる。

読書をしているときでも、

それは変わらない。

 

でも人間は、

シンプルなことをただやること、

ただやり続けることが、

どうも苦手なようなのだ。

 

 

ボーロ

*1:Attributed to Jacques Vaillant