哲学書を哲学書として読むには
▲ ライプニッツと書簡を交わしたゾフィー・シャルロッテ王妃*1
哲学書を、
文学作品のように読んでいては、
いつまでたっても哲学はできない。
哲学書を読むと、
世界が違うしかたで見えたりする。
たしかに哲学書には、
その種の、芸術のような効果もある。
しかも、その効果は、
必然的に伴われるものかもしれない。
しかしながら、
それは、哲学書を哲学書として読む
目的ではけっしてない。
世界の新しい見えかたを、
いくら味わっても、
それは芸術的な体験であって、
哲学をすることではない。
また、複数の哲学書をもちだして、
異なる世界の見えかたを比べたりしても、
それは芸術評論、文芸批評にこそなれ、
哲学をすることにはならない。
では、どうすれば哲学をすることになるのか。
ここにくると、哲学はいつもシンプルだ。
問いを立てて、言葉を使って考える。
それに尽きる。
読書をしているときでも、
それは変わらない。
でも人間は、
シンプルなことをただやること、
ただやり続けることが、
どうも苦手なようなのだ。
ボーロ
*1:Attributed to Jacques Vaillant